小説

『面影』野本健二(『鶴の恩返し』)

「ふうん、10年か」と彼女はどこか遠くの方を見た。「記念日なんていつも忘れられてたから、どうでもよくなっちゃった」
「秋刀魚」と彼はほとんどつぶやくようにして、開けた冷蔵庫に脱力した声を投げ込んだ。
「そうだけど?」
「秋刀魚は好きだ」彼の声の調子には、あふれ出る冷気も敵わない。
「知ってる」
「塩焼きか」
「塩焼きの方が好きでしょ?」と言って、顔を上げた。「もしかして、つみれが良かった?」
 男は、冷蔵庫の扉を閉め、髪の残る耳の上から後頭部へと櫛を入れるように掻いた。
「いや、塩焼きでいい」
「そう」
 男は頭を掻いた手の匂いを嗅いだ。
「それ、やめてよ」と女は言った。「前から言いたかったけど」
 男はくしゃみをした。女は編み物をテーブルの上に置き、代わりにティッシュを手に取り、男に歩み寄った。男はティッシュを黙って受け取り、鼻をかんだ。鼻をすすりながら、紙を丸め、ゴミ箱に捨てた。
「玲子、いつもありがとう」
「はいはい」と彼女はそっけなく答えた。
「10年くらいか? とにかくお前がいなければやっていけなかった」
「私は」と、彼女の声は恥ずかしさに沈んでいった。
「いや、お前がいなければもうとっくに死んでいたかもしれない」彼女の声が聞こえなかったのか、彼は目を伏せて続けた。「妻とのことで集中できなくて働けなかったのを救ってくれたのはお前なんだ。本当にありがとう、すまなかった」
「いいの」と彼女は諦めたように笑った。「私だって助けてもらったし」
「いや、助かったのは俺の方なんだ。マフラーもありがとう。楽しみだ。君の手作りの贈り物をもらうといつも嬉しくなる。セーターも助かったし、その前のブランケットも大いに助かった」

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