小説

『面影』野本健二(『鶴の恩返し』)

 カラスの鳴き声が夕闇に消えていき、涼しさが肌寒さへと変わる頃、こげ茶色の屋根の白壁の小さな二階建ての家で、彼女はいつもと同じように夕食の支度を始めていた。
 彼女は常々、秋の水道水は冷たいけれど米を炊くにはちょうどいいと思っていた。夏のぬるい水道水では美味しいご飯ができる気がどうしてもしなかったのである。
 小さな電灯に映る水が白濁してきたので、米粒を捨てないように注意しながら釜をゆっくりと傾けた。シンクに打ちつけられた水は間抜けな音を立て、排水溝へと飲み込まれる。一方で、米の研ぎ汁は豊かな匂いを上げる。彼女は肺いっぱいにそれを吸い込み、米を炊くのは人生で何度目だろうかと考えた。しかし結局、正確な数は分からなかった。きっとその数の4倍か5倍が、研ぎ汁を捨てた回数になるのだろう、とぼんやりと思った。
 結局今回は6度、水を取り換えた。本当ならばここで、米をザルに開けて、しっかりと水を落とすべきだと子供のころに教わった気がしたが、そうしなかった。いつもそうすべきではないだろうかと思うのに、一度もしたことはない。理由はいくつかある。面倒だったし、本当にそれを学校で習ったのか、記憶違いではないのか思い出せなかったし、正しい教育だったのか分からなかった。いずれにせよ、本やインターネットで調べるのは面倒であった。世の中なにしろ面倒だらけだ。
 彼女は釜を文明の利器にセットし、「炊飯スタート」のボタンを押した。
 今日のおかずは、秋刀魚の塩焼き。冷蔵庫の中には、昨日の残りのレタスとトマトに、縦半分に切った中に火の通ったゆで卵がある。味噌汁は塩分のことを考えてやめた。これだけの量があれば問題はないだろう。秋刀魚は米を研ぐ前にふきとって、塩を振った。
 彼女は薄いベージュのエプロンを外した。今日はお気に入りのダークグリーンの薄手のセーターに、膝下にかかるくらいの長さの洗いざらしのブルーのデニム地のスカートだ。どうしたって汚したくない。
 一度息を吐いた彼女は椅子に座ると、テーブルに向かい、編みかけのマフラーを手に取って続きを始めた。あと少しで出来上がる。寒い時期には間に合うだろう。
「玲子」

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