小説

『空の銛』清水その字(ハーマン・メルヴィル『白鯨』)

 咄嗟に操縦桿を倒し、ペダルを踏み込む。その巨体の脇を、僕は衝突寸前ですり抜けた。撃つ余裕なんて全くなかった。あったとしても撃ったかどうか分からない。呼吸を整えながら機を旋回させる。
 僕はB−29の上へ飛び出し、後ろ側を飛んでいた。速度を少し落とし、銀色の鯨の姿をじっと見た。本で見たデータでは確か、全長は三十メートルを超えていた。秋水の五倍はある大きさだ。背部に機銃も積んでいるはずだが、もう撃ってこない。ただ僕から逃げるように、たった一機でひたすら飛ぶだけだ。その行く先には海が見える。計器盤のコンパスを見て、東へ向かっているのだと分かった。つまりあの海は太平洋。
 もしかして、こいつは故郷へ帰ろうとしているのではないか。そう思ったとき、上から何かが降ってくるのに気づいた。秋水のシルエットが猛スピードで視界を過る。彼女は僕よりずっと高く飛んでいたのだ。
 加速をつけながら、アキエさんは鯨へ向かって急降下する。機関砲は一発も撃たず、ただ突っ込んでいく。
 まるで投げられた銛のように。衝突……体当たりする軌道で。
「駄目だ!」



 跳ね起きたときに聞こえたのは、下校時刻を知らせる音楽だった。目の前の計器類は数学の参考書とノートに変わっている。窓からは夕日が差し込み、隣には机に突っ伏して寝息を立てるアキエさんがいた。
 それを見て即座に、男として最低な行為を実行に移した。寝ているアキエさんの頭を持ち上げ、その頬を引っ叩いたのだ。
「んぎっ」
 奇声を発して、彼女は目を開けた。ほっと胸をなで下ろす僕だったが、アキエさんは不機嫌そうに睨んでくる。
「もうちょっとだったのに」
「アキエさんも死ぬところだっただろ」
「死なないよ。夢だもん」
「そのまま目を覚まさないかもと思って。それに」
 確信があったわけではないから、少し迷った。だが自分の感じたことを正直に告げた。

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