小説

『蜜柑の雨』柿沼雅美(太宰治『蜜柑』)

 もう一袋にも数えきれない量の蜜柑が入っていて、ちゃんゆいはどっこいしょっという顔をしながら腰までその袋を持ち上げ、手すりにつっかけるようにして袋を逆さまにした。中からは蜜柑がごろごろと放り出された。
 ステージ近くのお客さんは、イベントの特別な演出かと思っているようで、地面に落ちてぐにゃっとした蜜柑を拾ったり、降ってくる蜜柑を上手くキャッチした。アイドルの子たちはステージに落ちた蜜柑を拾ってお客さんに投げながら歌っていた。
 ちゃんゆいは空になった袋を両肩にかけ、さっと近づいて、私の袖を掴んだ。は? と思ったときにはちゃんゆいに引っ張られるようにしてエスカレーターではなく階段へ向けて走っていた。
 「わたしね」
 ちゃんゆいが走りながら私に振り向いて言った。左半分だけの顔が見えた。
 「わたしね、あのメンバーの子と友達なの」
 私は、ちゃんゆいに、そうなんだ、と返した。最近走ることなんてなかったからか既に息が上がりそうになっている。
 「あの子ね、インタビューで学校生活のこと聞かれると、学校の友達と仲いいですよほんとに、って言うの」
 うん、と私はこたえる。
 「学校の友達といると、普通の感覚を思い出させてくれるから大事なんです、って言うんだよ」
 うん、と息だけでこたえる。
 「自分が特別って分かってるの。分かってて、わたしのこと普通の感覚って言うの。でも、でもさ、それってちょっと違うじゃん。普通なんてどこにもないんだよ。見た目だけでさ、感情は全然普通じゃないかもしれないのに」
 うん、と少し遅れてこたえた。
 「わたしそんな友達が好きで、好きなのにちょっと嫌いで。きっとわたしは普通に受験して普通に大学生らしく過ごして普通に就職するのかもしれないけど、それって、どうなの」
 走りながらこんなにしゃべれるなんて若い証拠だなぁと思いながら、私は、それでいいんだよ、いいんだけど、とりあえずちゃんゆいは普通じゃないね、と言った。ちゃんゆいは私の袖を引いてまだ走ろうとする。
 「なんで蜜柑だったの?」

1 2 3 4 5 6