小説

『主人公』あおきゆか(『機械』横光利一)

 屋敷は自分が物語に雇われている存在だということをいまひとつ理解していないのではないか。屋敷=Cは受験生とか仕事熱心なサラリーマンというマジメ一徹の朴訥な人間、悪く言えば単純なお人よしをあてられることが多かった。しかし屋敷になってからのあいつは、ねじが緩みっぱなしである。それがだんだんと物語に侵食し始めてこのままでは小説に影響しかねないと思っていたら、昨日ついに問題が起きてしまった。屋敷が森に行くなどと言いだしたのだ。なぜ森かというと、今回の小説の舞台が吸収合併によって駅前周辺だけ突如開発が進んだものの周辺は深い森で覆われている田舎町という設定だからだ。むろん何かの資料を見たわけもなく、ただなんとなく孤島感を醸し出したかっただけで主人に森なんか描写する気はさらさらない。そんなことは少しも考えない屋敷は、昨夜深酒した挙句に今朝目を覚ますと突如、僕は今日森に行くと叫んだ。きっとそこは、蛇も出ない熊もいない蜂一匹飛んでいない切り株に木漏れ日のさすピクニック調の絵本みたいな森なのだろう。
 軽部さん軽部さん、と屋敷が陽気な声で軽部の部屋のドアを叩いている。なんだアサッパラからと屋敷の低い声がして、ねえ、三人で森に行きましょう。森?そうです、森です。森があるんでしょうここいらには。僕、もうこの町にはすっかり飽きちゃったんですよね。だって、遊び場と言ったらスナックとパチンコくらいしかないし、僕は酒もあんまり強くないしギャンブルもやらないでしょ。だったら都会では味わえないような自然を満喫しましょうよ。ね、行きましょうよ三人で森、なんて言っている。俺はそんな二人のやり取りをドアの内側に耳をつけて聞いていたのだが突然そのドアがどんどん、と荒っぽくノックされたので急いで部屋の奥に行ってからドアを開けた。なんだい、と何事もなかったような顔をして見せたが軽部はそんな俺の様子を察知してにやつきながら、こいつが三人で森に行こうっていうんだよと言った。俺はそんなことをして大丈夫なのか、そもそも森に行くこと自体まずいのではないかと思った。しかし、結局二人に押し切られ早朝の森に出かけることになった。むろん地図とか方位磁石なんてものは役に立たない。森に行く道中、屋敷の目を盗んで軽部が俺の耳元で、なあ森に行ったらあいつをちょっと締め上げてやろうと言う。いっそのことあいつを殺してしまおうか。俺が驚いていると、おまえ、いつまでも主人公でいられると思うのか、所詮主人公なんて作者と読者に委ねられているんだからやつらが気に入った人物が簡単に主人公になっちまうんだぞと脅かしてくる。たしかに今の主人の気持ちは屋敷に向かっている感じがしていた。もともとお前は屋敷を書きたいがための身代わりで主人公なんてのはしょせん語り役に過ぎないと軽部に言われ、俺は何もかもばかばかしくなってしまった。軽部は屋敷をここに置き去りにしてしまえば、物語でも失踪したことになって存在自体消えてしまうと言う。

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