小説

『主人公』あおきゆか(『機械』横光利一)

 私は主人公ではない。小説の中で私と名乗る者は大抵主人公だが、私は一度も主人公になったことはなくいつも脇役、それも本筋に関係のない人物だ。だがいまは登場人物としてではない私自身の物語としてこれを語ろうと思う。
 小説と言っても私の主人は作家ではなく、この春専門学校を卒業して就職した息子が一人いる主婦である。息子は先月勤務地が決まって家を出ていき、以来夫と二人暮らしなのだが夫は帰宅時間が遅いので彼女は昼間大抵一人で家にいる。できあがった小説を年に一度地方文学賞に応募するが一度も通ったことはなく、当然その作品は本屋に並ぶこともなく読者は一人もいない。昼間は雑事に追われ夜はドラマを見て、家族の寝静まった夜更けにようやくパソコンに向かうのだが一時間もすれば眠気がさしてくるために小説ははかどらない。登場人物は少ないときには二人、多くても三人ほどが似たような展開を演じる。便宜的に彼らをABCと呼ぶことにすると、主役はいつもAがやり、以下BCも主役同等の位置を占めている。さっきも言ったように私はその三人のうちの一人ですらない脇役で、自転車に乗って通りがかる交番勤務とか薬局の親父とか、あるときなど東武東上線に出没する痴漢をやらされたこともあった。だが主人にとってこのどうでもいい脇役のことを書くときほど楽しいことはないらしい。所詮脇役など本筋に色を添える程度のものと思っているのか、添える色によってはひどく地味だったりとんでもない人間だったりして、それをやらされるほうはたまったものではない。
 そんな主人が一番苦手とするのが街並みや建物の内部を描写することで、直接目にしたものでないと文章にできないし間取りを見ても実際の建物の様子が浮かばないし、反対に建物を描写した文章を読んでも実際の建物が想像できず、結局はいま住んでいる家とか昔住んでいたアパートとか駅までの通勤路ばかりを登場させることになる。そこへきてAは主人公ばかりやらされるのは疲れると言うが、私から見たら贅沢な悩みだ。たまには代わって欲しいよなどと言いながら笑っていたAだったが、ほんとうにそんな日がやってきてしまうと激怒した。ついに私が主人公になったのである。まあ、激怒なんて言うと大げさで、果たしてAはそんなあけっぴろげな態度はとらない。もっとネチネチと陰湿である。

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