小説

『手袋と赤ん坊』ふくだぺろ(『北米先住民の民話』)

   異変に気づいたのは手袋だった。最初はかすかな、予感とまちがうような震えだった。遠い過去から聞こえる震えがだんだんと現在に追いついてきて、気づけばまた川を流れていた。木が地面にとどまって居眠りしていたときの安らぎを、手袋はもう2度と思い出すことはなかった。なんとか流木から脱けだそうと身をよじっても、枝にひっかかってとれなかった。焦れば焦るほどからまって、水音がおおきくかぶさってきた。
   「しょうがないよ。人生あきらめてさ。静かにいこうよ」
   それでも手袋は諦められなかった。もがいてもがいてあがいていた。あまりにもがくもんだから、中の赤ん坊がびっくりして泣きはじめた。あまりに激しい、頬をひっかく揺れは母の胎内とはほど遠いし、指先の穴から浸入した癖にかさを増していく水も冷たすぎた。無我夢中で銀杏から離れようとする手袋はなかに水が入ってきてることに気づいていなかった。赤ん坊は腰まで水につかっていた。水は赤ん坊に触れてうれしそうだった。
   「やわらかいなあ、おい」
   「なんか楽しいことねえかな」
   「もちもちしてら」
   「テレビ録画しとけばよかった」
   「生まれたての赤ちゃんみたいだ」
   「そいえば、石野、課長になれなかったらしいぜ」
   「赤ちゃん、みてみたいなあ」
   「すごい音だな」
   「いまごろ外ではみんなぴーちくぱーちくやってんだろな」
   「エッグマフィン食べたいなあ」

   水は赤ん坊を見たことなんてなかったし、手袋もしらなかった。というのも43億年前に海が誕生した。その3億年前に微惑星の衝突で地球が誕生した時から大気中に気体として水は存在していたから、いま手袋のなかにいる水も43億どころか46億歳、むしろ地球が誕生する以前、150億年前から存在していた。だからか水は1億年たたないと覚えないという話だった。10回以上通わないと客の顔を覚えられないレストランのようなもので、赤ん坊も手袋もまだ1億年は生存していなかった。

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