小説

『笛吹き男のコーダ』木江恭(『ハーメルンの笛吹き男』)

 やれやれ、揉め事でないなら構わない。碓氷が箸を持ち直したところで、男の拳がすずの髪を掠めた。
 すずは――全く気づいていない。
 音を奪われるだけで、人の背中はひどく無防備になる。
 碓氷は思わず手を伸ばした。まるで骨に直接触れているかのような痩せた腕を引き寄せる。びくりと怯えたように体を引くすずの肩は、碓氷の両手にすっぽりと収まった。
 そのままその体を荒っぽく反転させて歌っている連中を見せてやると、すずはすぐに訳を悟ったようで、微かに頬を赤らめて碓氷にぺこりと頭を下げた。それから男たちをじっと見つめ、首を傾げる。何をしているのかしら、とでも言わんばかりに。
 すずは、生まれた時から耳が聞こえないのかもしれない。そうであれば、歌というものが何なのか、わからずとも無理はない。この先決して、わかることもない。
 碓氷は憐憫を感じて目を細めたが、すずはもう男たちの騒ぎに興味を失ったらしかった。手を伸ばして盆を引き寄せ、落とした布巾を拾い、もう一度碓氷にお辞儀をしてから、奥へ戻って行った。碓氷はそばと芋を平らげて、早々に席を立つ。
 店を出れば、後はねぐらに帰るだけである。提灯で照らされた夜の目抜き通りを、碓氷はゆっくりと歩いていった。通りでは、湯へ向かう客や足元の危うい酔っ払いがひっきりなしに行き交い、客引きの若い男たちが声を張り上げている。往時ほど盛んではないとはいえ、ここにも盛り場はある。
 碓氷はその間をすり抜け、くねくねと曲がる路地へ滑り込んだ。そこから更に細い道へ逸れ、手前から数えて三軒目、何の看板も出ていない引き戸を開ける。この宿も、組織が手配したものだ。
 薄暗い板の間で、くたびれた親爺が帳面に何かを書き付けている。戸の音を聞きつけて、ちらりと視線を上げて碓氷を見ると、小さく頷いた。碓氷は息を呑み、慌てて引き戸を閉めて親爺に駆け寄った。
 碓氷が待ちくたびれていた、組織からの指令が下りたのだ。
 親爺は無表情のまま、口を動かした。碓氷は目を凝らし、その動きを読んでいく。
 いぬ、あかねのさくら、いそげ。

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