小説

『汐穂の王子さま』晴香葉子(『星の王子さま』)

 不思議と、どのような状況にあっても、好きなことには集中できるものだ。汐穂は、ことのほかうまく描けた絵を渡しながら、ペットボトルに入った水を受け取った。
「はい、ヒツジ。これでいいでしょ?アルプスの少女ハイジのオマージュで描いてみました!70年代のアニメなんだけど、知ってるよね。あ、アニメに出てくるのはヤギだけど、ちゃんとヒツジを描いたから……。お水ありがとう。あ、よかったら、あなたも飲んでね。何本かあったでしょ?」
 ゴクッと一口、つめたい水が喉を潤したそのとき、返ってきたのは意外な言葉だった。
「違うよ。こんなやせっぽちのヒツジじゃ、長生きできないじゃないか」
「えっ……」
 その瞬間、汐穂の頭には、2つのことが同時に浮かび、完全に目が覚め、息をのんだ。
 ひとつは、その青年の服装が、最近本棚を整理してふと目にした『星の王子さま』の挿絵そのものだったということ。「ヒツジを……」と言うセリフも、確か、その本に出てきたはず……。
そしてもうひとつは、やせっぽちで長生きできなかった海翔(ひろと)のこと。小学校から高校までずっと一緒で、ずっと大好きだった海翔のことだ。中学のときは素直になれなくて、高校2年生でやっと付き合うことができたのに、それから1年で死んでしまった。海翔は高校でも優等生で、汐穂は補欠の繰り上がり入学で、海翔のほうが何倍も頭がいいのに、「大学も一緒のところに行こうね」って言うから、必死に勉強していたあの夏……。

 少し気分が悪くなり、身体を支えるように左手をつくと、枕の影に隠れていたメガネにあたった。頭に浮かんだ2つのことから現実に戻ろうと、メガネをかけ、確認するように再度視線を向けると、なんとその青年は、髪型こそ違うけれど、海翔だった。細い顎には不釣り合いな、はっきりとした眉。すっと通った鼻筋。優しい目……。そして髪はカツラではなく、ふさふさとしたきれいな金髪だった。
「えっ、海翔なの?」
 おそるおそる聞くと、金髪の海翔は不思議そうな顔をして
「描きなおしてくれる?」
と言った。汐穂は混乱しながらも、「そうそう、確かお話では、箱を描けばいいんだった」と思いだした。「この箱の中に元気なヒツジがいるよ」って渡せばいいはず……。汐穂は手早く四角い箱を描き、目の前にいる変わった服装で海翔そっくりの青年に渡した。

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