小説

『凍てつく血、青銅の心』柳氷蝕(ギリシャ神話『エンデュミオン』)

 息を潜めながら、死神は最も恐るべき可能性を考えた。もし同じ冥王の眷属が来たのならば、面倒なことになる。その者が、自分が職務を放棄してこんなことをしているのを見たとして、それを冥王に密告すれば、冥府に下ったのち、どんな恐ろしい懲罰が待っていることか。直ぐに場を離れれば不安など抱かずにいられるものを、後ろ髪を引かれる思いがして、死神は動けないでいた。そして、少年を見守り続けることが自分の果たすべき最大の義務であるかのように思い始めていた。
 やがて、気配の主が、和毛のような草に覆われた、開けた場所――少年のすぐ側に姿を現した。
 それは、光の塊と見紛うほどの白貌をしていた。体に巻き付けた白妙と肌の色、静かに燦めく銀糸の髪は薄光を放っており、目を凝らさないとほとんど見分けが付かない。女性だと判別が付いたのは、輪郭が柔らかく丸みを帯びていたためだった。
 ――月の女神、だろうか。
 冥府の住人でないことに愁眉を開きながら、何故このような場所に女神が降臨するのか、その理由に何となく想像が付きながらも訝しむ。
 そんな死神のことなど知る由もなく、女神は横たわる少年の傍らに腰を下ろした。
 引き結んでいた口元を綻ぶ蕾のように緩ませ、目を固く閉ざす少年の秀麗な顔をのぞき込む。そして、愛おしげに頬を両手でそっと包み込んだ。ちょうど、死神がそうしたように。
 死神はその場に縫い取られ、石膏のように固まっていた。目を背けたい。けれども、背けられない。
 一度冷え切った体の空虚を、再び熱がじわじわと這うように満たし始めた。不快な熱だ。外に出る術を持たず、内側で爆ぜんばかりに膨れあがり、いつまでも燻り続けるような。
 そして、何か粘稠なものが寄り集まって坩堝の中身さながらに渦巻き、こごり始めている。それが鉄の心臓と青銅の心を圧迫し、粉々に砕いてしまおうとする。
 何らかの原因で、夜の持つ禍々しさが浸みだしてきているのかも知れない。そのように考えると、痛みは更に増した。孤独な痛みだった。渺茫と広がる夜にいるのは自分と少年だけで、その閉ざされた時は永遠などという感覚は、遥か昔の夢に等しかった。今は、他人の見ている夢を、見つめているのだ。
 「今日も来たわよ。私の……」
 愛しい者の名を呼ぼうとした女神だったが、それが成し遂げられることはなかった。少年に纏わった死の気配に気が付いたのだ。
 「何ということ……」

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