小説

『凍てつく血、青銅の心』柳氷蝕(ギリシャ神話『エンデュミオン』)

 極度に皮の薄い指の腹が滑り、柔らかい弾力に飲み込まれる。死神はほうと溜息をついた。何と柔らかいのだろう!自分の無機質で骨張った体と鎌の柄の他にはほとんど何も知らぬ手に、若人の肌はあまりに瑞々しかった。堅さが死ならば、その反対は生なのだと、実感を以て理解させられる。
 指を触れるだけでなく、そっと頬を包み込んでみたりもした。じんわりと熾火のような熱が、冷え切った掌に染み渡るように伝わってくる。うららかな春の陽気のように穏やかで、それでいてしっかり熱を持っている。胸の奥に埋まった、冷たいまま脈動する鉄の心臓までその熱が届いて、仄かに温められたようだった。
 だがそれは、熱を奪っているということに他ならなかった。
 触れ合いと共に、少年の紅い頬から血の気が失せ、徐々に白くなっていた。指先も、細くしなやかな腕も、足も。柔らかさも共に失われ、冷え固まって行く肌は、さながら神殿の白大理石だった。
もはや少年は、死神の目を捕らえた、あの少年ではなかった。
 死神は弾かれるように手を離した。あれだけ熱かった衝動が、急速に冷えてゆく。彼の口元に耳を近づけ、静かに呼吸が繰り返されているのを確認すると、死神は胸を撫で下ろした。そして、己の愚行を悔やんだ。
 ――あの美しさは、命の燃える輝きだったのか。
 何故、それに少しも気が付かなかったのか。何と自分は馬鹿なのか。ほんの数秒の戯れで、零れる星屑の輝きを永遠にくすませてしまった。この美しい少年の魂を手に入れたいと思うあまりに、逆に決して手に入れられなくなってしまった。
 ――命を返してやりたい。
 だが、一度吸い上げた命は覆水が盆に返らぬように、決して戻すことはできない。奪うばかりの自分は、僅かばかりの贖罪さえも叶わない。
 何もせずに少年を眺めやるばかりでも、後悔しただろうと思う。けれども、このようにしたところで、やはり後悔するのだ。
 ――何も見なかったふりをして、通り過ぎてしまえば良かったのだろうか。
 少年と出逢ってしまったことそれ自体を、死神は後悔し始めていた。
 その矢先、静謐な夜気を震わす気配が近付いているのを、死神は敏感に感じ取った。
 ――何者かが、こちらにやってくる。
 死神はすぐさま気配を闇に溶かし込み、少年の頭の方向にある木立の後ろに身を隠した。万が一にでも存在を知られる可能性が低く、夜目を利かせれば、少年の姿をはっきりと見ることの出来る場所だ。
――まさか、冥王の麾下の者か。

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