小説

『凍てつく血、青銅の心』柳氷蝕(ギリシャ神話『エンデュミオン』)

 兄は生けとし生ける者に「眠り」という安息を与える、優しき神。対して自分は、生けとし生ける者を冥府という血も凍るような闇のあなぐらへ突き落とす、残忍な神。
 この眠りに落ちている少年には、兄の祝福が与えられている。しかし、自分は死という生の一切を凍らせる呪い以外、何も与えることはできない。
 ――それともいっそのこと呪いを贈って、この少年を冥府に連れ去ってしまおうか? その魂を、自分の館に閉じ込めてしまおうか?
 死神が触れたもの、吐息が掛かったものは生命を奪い去られてしまう。少年からの肉体もそのようにして冷たい骸にし、遺された魂だけを連れて行こうというのだ。肉体と魂の絆は深く、肉体が滅びる直前の姿を、魂は器に満たされた水となって留める。美しいまま命を終えれば、それだけ美しい魂が抜け出てくる。
ただでさえ義務を放棄しているというのに、そのような私欲に基づき生死を左右にするようなことまでしたと明るみに出れば、冥王からどんな懲罰が下されるのか。想像も出来ない。
 しかし、死神の中には、今や恐怖以上のものが胚胎していた。この世で自分が最も恐れるべき存在を謀ろうという、ある種の背徳感とそれによる高揚感。そして、正体の分からぬ感情の混沌。脊椎を、全身の骨を、縒り合わさったそれらの感覚が、生き物のように駆け抜ける。
 身体の隅々にまで波紋が広がる。軽微な酩酊すら伴った熱が、死神の中に湧き起こっていた。
 ――この少年は、自分に砂粒ほどの好意も寄せてはくれないだろう。おののき、叫喚し、一寸近付くことすら全身を震わせて拒絶するだろう。だがそうなることを恐れ、少年に手を触れることもできず、夜ごと眺めやるだけで歳月を送れるだろうか。少年の死を待ち続けるとして、そのうちに花の色は褪せ、水気を涸らしてしおれてゆくだけだ。その厳然たる事実と流れる時による変遷に、自分は耐えうるのだろうか。
 雫を途切れることなく滴らせ続ける、強く握ったらそれだけで四散してしまいそうな氷柱。自分の心が僅かな間にそのように脆くなってしまったことに、死神は焦りと恐怖、それと相克する感動を覚えていた。万人に平等で、冷淡であらねばならない死神の基幹が、揺らいでいる。自分が自分でなくなるかも知れない。だがそれは、蛹の殻が破れることに等しいのかも知れないと。
 熾火を消してしまうと、果てしない後悔が待っているような気がした。
 ――触れてしまおう。
 様々な思いに胸を振るわせながら、少年のほんのりと薔薇色に染まった頬を、死神はそっと長く細長い指でなぞった。

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