小説

『待つ』野口武士(『浦島太郎』)

 女性は訝しげに呟いて、下を向いた。しばらく俯いていたが、波打ち際に目をやり、
「もう行かなくちゃ」
 と言う。
 アコは女性の視線の先をたどる。そこで、何か様子が違う事に気付く。慌てて辺りを見回すと、両親の姿が見えなかった。それどころか、さっきまであんなに賑わっていた海岸に、誰一人いなくなっていた。夕暮れの色彩も消え、一面真っ暗で、不気味な低い波の音が聞こえるばかりだった。
 そしてアコは見た。波打ち際に、今まで見た事もないような、大きな、体中に古傷のある海亀が上がってくる。まるで仙人のような深い目を、女性に、そしてアコに向けていた。
 女性が立ち上がり、その海亀に向けてゆっくりと歩き出した。海亀は女性を視線で追い、自分と並んだところで向きをかえた。思わずアコも立ち上がる。その時、海亀は意思を持っているかのように振り向いてアコを見た。目が合う。アコには彼が何を考えているが分からなかったが、彼ら眷属の悲しいさだめを垣間見た気がした。女性と海亀は、一緒に海に入っていく。
 アコはその場で動く事ができなかった。女性の白いワンピースが波に揺られ、広がっていく。その光景は、寂しく、悲しく、そして美しくさえあった。
 女性の姿はだんだん遠くなっていく。海亀の姿はもう波に隠れて見えない。女性の長い髪が海に触れたあたりで、今度は女性がこちらを振り向いた。先ほどとは違う、彼女の表情。彼女の目を見ていると、まるで深淵の底を覗き込んでいるような気がした。その瞳に吸い込まれるように、意思に反して足が海の方に向かっていく。彼女の目の中に落下していくかのように、体から力が抜けていく。イヤ、行きたくない、でも足が止まらない……。
 彼女の声が頭の中に響く。
「待ってる人なんか、誰もいないわよ」
 その言葉を聞いてアコは恐怖よりも怒りに体が震えた。必至に抗う。助けて、みんな。叫ぼうとしても声が出なかったが、アコは必死に訴えかけた。両親に、祖父母に、日本にいる大事な人達に。
負けたくなかった。自分を待っている人がいる事を、自分の誇りにかけて証明したかった。力の入らない体を何とか自分に取り戻そうと、がむしゃらに抵抗し、思いを飛ばす。サンダルを履いた素足に、波がかかりはじめた。誰か、みんな、私を連れ戻して。

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