小説

『青乃先生』朝蔭あゆ(『土神と狐』)

 それに引き換え、春子はなんと幸せな境遇にあるだろう。家にも容姿にも才にも恵まれ、この上幾度となく青乃先生にお会いすることができる。そしてきっとその度に、先生はこうおっしゃるのだ。春子ちゃん、よくがんばりましたね、と。



 滴るばかりの木々の緑を、梅雨の空が覆うようになると、春子は再び教室から姿を消した。時子はその空席を見る度、やり場のない気持ちに苛まれた。今この時にも、春子と青乃先生が睦まじく話をしているかもしれないと思うだけで、いてもたってもいられなかった。
 時子の足は、知らぬ間に春子の家へと向かう。先生の姿を一目でも見たいと思ったからなのか、あるいは2人一緒ではないという事実を手に入れたかっただけなのか、もはや時子自身にさえもわからなくなっていた。
しかし時子は、自分の行いをすぐに後悔することになる。春子の家の前に着くと、2階の出窓に人影が動くのが見えた。息を呑んで見つめると、レースのカーテン越しに見えたのは、向かい合って言葉を交わす春子と青乃先生の姿だった。
 女学校ではおさげにしている髪を下ろし、春子は何やら身振りを交えて青乃先生にお話ししている。先生はそれに頷きながら、時折口元に手をやってころころと笑っていらっしゃった。
銀雨の帳の向こうに見えるそれは、あまりに美しい一幅の絵画のような光景だった。
時子は目を離すことができずに、しばらく門前にまるで木偶の棒のように立っていた。そしてはっと気付くと2、3歩後ずさり、一目散に駆け出した。
耳の中では、青乃先生の声が響く。その声は、時子と春子の名を代わる代わる呼び、そしてついには春子の名ばかりを呼ぶようになった。
「いや!」
短く叫んでうずくまり、時子は耳を塞いだ。
雨の中でそうしている自分は、一体なんと醜いだろう。あの家にいるあの子と、代われるものなら今すぐ代わってしまいたい。それが叶わぬならいっそ、
「……」
 時子は、背筋が凍りつくのを感じた。

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