小説

『青乃先生』朝蔭あゆ(『土神と狐』)

 あすこの家の往診のお帰りかしら。自然、時子の足は歩みを速めた。
 しかし、青乃先生が出ていらした家の前に近づくにつれ、その勇み足は徐々に動きを鈍くしていった。瀟洒な洋館の、来るものを睨めつけるような門扉が立ちはだかる。そこは、病気でしばらく学校に来ていない春子の家だったのだ。
 その瞬間、時子は自分の心が何やら得体の知れない黒くもやもやとしたもので満たされていくのを感じた。それは抗う間もなく静かに蔓延り、時子の心をじわりと支配していく。
せっかく通りすがったのだから、気を利かして見舞いの一言でも言い置いてゆけばよい。そう思った考えとは裏腹に、時子は踵を返し、もと来た道を猛然と歩き出した。
 どんなに速く歩いても、どんなに泥を跳ね上げてみても、黒いもやもやは振り切られることなく時子についてくる。
「やめて」
 家に帰り着いて、その形相とあまりの汚れ方に女中が驚いてすっ飛んできてもなお、時子はもやもやに取り憑かれたままだった。
 2階へ駆け上がり、部屋に戻ると、ふと隣にある妹の文箱が目についた。中には、妹が後生大事にしている気に入りの手鏡が入っている。時子は手を伸ばして文箱の蓋を開け、朱塗りの手鏡を取り出した。そしてそれを力一杯握り締めると、座卓の角へと打ち付けた。ひびが入ってもまだ飽き足らず、幾度も幾度も打ち付け、しまいには畳の上に粉々になった鏡が散らばった。それでも時子の中のもやもやは、毛の先程も晴れない。妹が戻ってきて泣き喚くのを見ても、母さまにきつく叱られても、まだ消えてはくれない。
 黒く逆巻く澱の中で目を閉じると、耳の奥で青乃先生のおっしゃる声が聞こえる。
 密やかに、闇に鳴る鈴の音のように。
「時子ちゃん、よくがんばりましたね」
 そしてその刹那、時子はえも言われぬ恍惚を覚えるのだ。



 春の長雨を終えて、爽やかな初夏の季節が訪れると、小康を得たらしい春子が女学校へ再び顔を出すようになった。
 時子は少し痩せたように見える春子のもとへ歩み寄って、声をかけた。
「もうよろしいの」
 すると春子は、驚いたように目を見開き、そして頷いた。

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