小説

『青乃先生』朝蔭あゆ(『土神と狐』)

 その方は、青乃先生とおっしゃった。
 黒々とした、烏の濡れ羽のように美しく長い髪と、すらりと細い手足、そして切れ長の涼やかな瞳をお持ちの方だった。
 先生はいつも、大きくて重たげな茶色の革鞄を下げていらっしゃる。時子の住む小さな町の、たったひとりのお医者だった。
 時子は小さな時分から青乃先生に診て頂いていた。丈夫に生まれついた時子がごくたまに熱を出したりすると、すぐさま往診に来てくださって、喉を見たり脈を見たり、聴診器を当てたりする。そして痛い注射を我慢すると、最後に微笑んでこうおっしゃるのだ。
「時子ちゃん、よくがんばりましたね。すっかり治るまで、いい子にお休みなさい」
 しかし時子は、なんだか気恥ずかしいような決まりの悪いような心持ちになって、いつもぷいとそっぽを向いてしまうのだ。
 母さまが先生を見送りに玄関へ出たのを見計らって、時子は布団から這い出し、部屋の窓から顔をのぞかせる。するといくらもしないうちに、カラカラと引き戸を立てる音がして、青乃先生がお帰りになる姿が見えた。その凛とした青竹のような後ろ姿が、時子はとても好きだった。
「母さま、青乃先生の青は、青竹の青かしら」
「さあねえ。この次お会いした時に伺ってみたらどう」
「そうするわ」
 それはとても素敵な考えのように思われた。けれどもあれから女学校に上がった今になるまで、時子は先生にそれをお話しできずにいる。



 女学校の級友に、春子という少女がいた。
 制服のプリーツスカートにはいつもぴしりとのりが効いていて、真っ白なくつ下に黒の革靴を履いている。教室でも一等垢抜けているその少女は、立派な商家の跡取り娘だった。
 勉強ができて、頭も良く回り、そしていつも新しい話題を持っている春子の周りには、おのずから人が集まった。

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