小説

『恩返し』池上夏紀(『鶴の恩返し』)

「もちろん。あの古臭いボロボロの家に…。それも嫌だったんだよ、俺は。昔ながらの家って感じでよ。風が吹いたらみしみし言って、夏は暑いし冬は隙間風吹いて寒いし。俺はいつか、あの家建て替えてやれるくらいになりたい。ふん、その前に今日みたいな風とか雨で壊れちまうか」
 男は自嘲気味に笑った。
「きっと、あなたはもっとご立派になられますよ。だって、とても良い人なんですもの。だからそれまでご両親と家の安泰をお祈りします。私になにか出来ることは無いのですか」
 少女の心からの言葉についに声を上げて号泣し始めたが、
「締めのうどんでーす」
 というアルバイトのだるそうな声に遮られた。この店の隠れた名物らしいワカメとネギだけのうどんを啜っているうちに、男はだんだんと落ち着きを取り戻した。
 うどんは、少女の一番お気に召したようだった。わずかな表情の差でしかないが、これまでのどの料理よりも美味しそうに、嬉しそうに頬張っている。
「明日は、北にいくんだよね。具体的な場所は決まってないの?」
「はい」
「だったら、四国に寄ってみてよ。香川で食べたうどんは本当に美味しかったから」
「香川の、うどんですね。是非行ってみます」
 男は泣きはらした目で満足そうに笑った。この男には少女が菩薩のように見えた。

 居酒屋を出ると、男に急激な眠気が襲った。久々の酒と長い連勤生活が、鉛のように背中にのしかかった。
「大丈夫ですか?」
 少女は不安げに尋ねた。
「ありがとう。いや、なに。ちょっと眠くなってきてしまって」
「家は、どこなのですか」
「2つ先の駅の近くだよ」
 自然に落ちてくる瞼の間から少女の困った顔が見える。眠気の奥から、猛烈な下心が湧いてきた。
「あそこのホテルに泊まろうかな。…一緒に来る?」

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