小説

『恩返し』池上夏紀(『鶴の恩返し』)

「始発まで時間潰すの、付き合いましょうか」
 自分らしからぬ、魔が差したとしか思えない発言だった。しかし、少女はすぐに
「本当ですか?嬉しい。ありがとうございます」
と言った。振り向いて見せた笑顔は、この世のものと思えない程美しかった。
 奇妙ないきさつで暗闇を歩いていたが、何しろ強風に豪雨である。ひとまずどこかに落ち着きたかった。繁華街の方へ歩いては見たものの、明かりのついている店と言えばいかがわしげなスナックやインターネットカフェくらいしか無い。2人は歩きまわって、遅くまでやっている居酒屋を見つけた。
 居酒屋、というより小料理屋と言う方がふさわしいその店は、こじんまりとしていたが客の入りはそれなりで繁盛しているようだった。案内された座敷に向かい合わせで座ると、男は急に気恥ずかしくなった。10歳以上年が違うであろうこの少女によくも俺はこんなナンパまがいのことをしたものだ。俺は自分が思っている以上に、分別が身についてはいなかったのかもしれない。しかし同時に、こんなにも美しい女性とご飯を共に出来ることに胸は躍っていた。よくやった、俺。
 やる気の無さそうなアルバイトがビールを持ってきた。
「さあ、乾杯しようか」
「…カンパイ、とはどのようなものでしょうか」
 あまりに予想外の質問に一瞬驚きはしたものの、最初の出会いを考えてみれば少女がそんな疑問を抱くことに対して違和感はなかった。きっといいとこの世間知らずなお嬢さんなのだろう。
「乾杯は、このグラスについてある取手の部分を握り、お互いふちに近い部分をぶつけるんだ。」
「分かりました。やってみます」
「じゃあ、いくよ。乾杯」
 少女は信じられない程強い力でグラスをぶつけ、グラスにヒビが入った。力の強さというより、一瞬吹いた風のような力のせいだった。男は一瞬ひるんだが、思考を止めて目の前にあるビールを飲み、半分ほど減った段階で満足げにプハーと息を吐いた。それを見ていた少女は、それをそっくり真似して見せた。プハーとわざとらしく呟いた彼女は、ビールが戻ってきそうなほど可愛らしかった。
「何がいいか分からなかったから、同じビールを頼んでみたけど。どうだったかな。美味しい?」
「とても、苦いです。それに、身体がとても熱いです」
 さすがに20歳は超えているようだったから飲めると思ったのだが。それでもカクテルとか、飲みやすくて女の子が好むものにすれば良かったと後悔した。おっさんじゃないんだから、どうしてビールに付き合わせたりしたんだ。

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