小説

『いつか、そこに咲いていた花』村越呂美(太宰治『あさましきもの』)

 私は、不思議じゃないと答えた。
「自立した女性というのは、男の肩書きや金に無頓着なものですよ」
 私がそう言うと、岸田はうれしそうにうなずいた。
「その通り。瀬戸さん、若いのに世の中のことがよくわかっているな。さすが、出版社におつとめのエリートだ」
 こういう歯の浮くようなセリフをさらりと言えるのが、岸田のすごいところなのだ。世の中には、明らかにお世辞だとわかる言葉を喜ぶ男がけっこうたくさんいるから、岸田が女だけでなく男からも好かれるのが、わかるような気がした。
「ただ、頭の良い女性というのはね、いずれ私のような男には見切りをつけるものです。まあ、理由は色々なんですがね」
──このままでは、私はこの人をだめにしてしまう。
──いくらつきあっていても、この人と一緒の将来は見えない。
──私がいなくても、きっとこの人は幸せに生きていくだろう。
 岸田にはもったいないような女性達は、悲しそうな笑顔で去っていった。恨みもせず、借金の返済を迫ることもなく。
「いつも最後はそんなですから、鏡子に捨てられるのも、時間の問題だと覚悟していました。だから彼女から結婚したいと言われたのは、本当に意外でした。たぶん、自分が見捨てたら、私が死んでしまうんじゃないかと、思ったんでしょうね。あれは責任感の強い女だから」
 鏡子が結婚するにあたって、岸田にひとつだけ約束させたのは、決して酒を飲まない、ということだった。岸田は約束した。これから先、自分をこんなふうに思ってくれる女は二度と現れないと思ったからだ。
──酒をやめるのは辛いけれど、お前と一緒になるためなら、約束するよ。
 岸田は鏡子に断酒を誓い、二人は結婚した。
 看護師である鏡子の世話は完璧で、酒をやめた岸田はみるみる体力を回復した。鏡子に注意されて、病院にもきちんと通った。結婚して二ヶ月、岸田は医者から脂肪肝は完治したと告げられた。
「それがいけなかったんです。なんだ、二ヶ月酒をやめれば治るのか。そう思うと、永遠に酒を飲まないというのが、どうにも割に合わない気がしてきたんです」

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