小説

『いつか、そこに咲いていた花』村越呂美(太宰治『あさましきもの』)

 私がそう言うと、奥井シェフは、
「では、あちらにいるお客さんと料理をシェアする、というのはいかがでしょうか」
 と、カウンターに座る男を見た。
「岸田さんと言って、私の知り合いのお友達です。今日もその人と一緒にいらっしゃるはずだったのですが、急用で来られなくなって、お一人なんですよ」
 私達の会話に気づいたのか、その男がこちらを見て、軽く手を挙げた。その物慣れた様子に私は少し苦手なものを感じたのだが、奥井の顔を立てて、一緒に食事をすることにした。それが私と岸田の出会いだった。
 その日食べたシェフのおすすめ料理は、どれも美味しかった。イタリアのプーリア地方で修行してきたという奥井の料理には、洗練され過ぎていない、素朴なうまさがあった。値段が手頃だったのと、店のある中目黒が通勤の乗り換え駅だったので、私は記事を書いた後もプライベートでその店を訪れるようになった。そして、岸田とも、たまに顔を合わせるようになり、お互い連れのいない時には、テーブルをともにするようになった。
 何度目かの食事の際、私は岸田にワインをボトルで頼もうと誘ってみた。その日私は仕事でささやかながら成功を収め、祝杯を挙げたい気分だったのだ。岸田はいつも水割りのようなものを飲んでいたので、酒飲みと見込んでの誘いだった。ところが、
「瀬戸さん、これ水割りに見えるでしょう。実はアイスティーなんですよ」と、岸田は笑った。
「アルコールは飲まないんですか?」
 意外だった。
「いやいや、本当はね、底なしの酒飲みなんです。でもね、最近やめたんですよ、すっぱり」
「そうなんですか」
 私は理由を聞いていいものかどうかわからず、曖昧な返事をした。
「瀬戸さん、ご結婚は?」岸田に聞かれ、私はまだだ、と答えた。
「そうか、瀬戸さん、まだ若いものね。これからか。私なんかは五十歳を過ぎるまで、自分が結婚するなんて想像すらできなかった。ご覧の通りだらしない性格でね、いつも友人に助けてもらってばかりですよ」
「助けてくれる人がたくさんいるのは、岸田さんの人徳ですよ」
「いやいや、そんなりっぱなもんじゃありません。自分の面倒も見られないようなダメ人間です。だから、夫として、父として、妻や子供の人生を背負うなんて、とても自分には無理だと思っていました。それがね、二年前、体をこわしましてね、脂肪肝という病気です。酒の飲み過ぎですよ」

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