小説

『狼はいない』光浦こう(『狼少年』)

 雑草がぼうぼうと伸びたかつての遊牧地は、半分腐った茶色い木の柵で囲まれている。右手には羊を飼うための家畜小屋、左手には平屋建ての家、そして入り口から一番奥の小さな塔の様な建物には錆びて色が褪せてしまった鐘が吊るされている。
 大切な羊達に危険が迫った際の警笛として。
 柵に沿って無防備な家の方へと歩んで行く、遠目には分からないが外壁は亀裂がいくつも走り、触るとぽろぽろと土が落ちる。蔦が伸び身長よりも高い所に小さな花が咲いていた。
 扉を軽く押してみると、ギイと嫌な音を立て中への道を開けてくれた。下手に力を入れたら壊してしまいそうな程に脆い。部屋の中だと言うのに天井に空いた穴から光が射し不思議な程明るく、埃が舞っているのが光の筋の中に浮かび上がる。机、椅子、棚、やかん等が今でも人が住んでいるかの様な、当たり前と言う調子で配置され空間に収まっている。
 人の住んでいた気配を感じてしまったせいか、勝手に上がり込んだ事に罪悪感を覚え早々に部屋から出た。
 太陽の光に目を細め壁に手を預けた際、不自然な窪みに手が触れた。それを見て背中をゾッとした何かが這った。
 オオカミだ。
太い爪で、えぐる様に壁に4本の引っ掻き傷が刻まれている。
 彼は、これに殺されたのか。
 童話の中の出来事であったはずなのに目の前にそれを見せられ自分でも驚く程に動揺しているのが分かった。人の死という生臭い現実が急に目の前に突き出されてしまったのだ。
 逃げなくては、村へと。
 無意識に頭が警笛を鳴らす。バッと後ろを振り返ると来た時には気付かなかった、同じ目線の高さに広場の銅像が見える。遥か昔、この広い草原で1人、彼も村の灯りを眺めていたのだろうか。

 
 小道を来た時よりも遥かに早い速度で下り、一本道へ飛び出すと村の方から1人の男が歩いてくるのが見えた。
その男は汚らしい歯を覗かせながらにやにやと近づいて来る。

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