小説

『綿四季』音木絃伽(『枕草子』第一段)

 春は気持ちがふわんふわんする。
 落下を待つジェットコースターとおんなじで、下腹辺りがむずがゆくなり緊張と不安に憔悴するくせに、今か今かと目前の壮快疾走に期待して心が躍る。
 落ち着かないので酒を飲む。梅酒とか花梨酒とか春は果実酒が飲みたくなる。筍を鰹節と醤油で煮た物とかホタルイカの酢みそ和えなんかがあると尚のこといい。
 新しい靴下を買ってみる。新しい歯ブラシを買ってみる。新しい猫を撫でてみる。
 春は新しい猫があちこちにいる。自転車置き場の植え込みの下。高架下の自販機の脇。生まれたばかりの新しい猫が警戒しながら、餌を求めてにゃごにゃご寄ってくる。警戒しているといっても、それは人間がどんなものであるかを知らないだけの警戒なので、額を掻いてやったりすると、すぐに馴れて人差し指の先をぺろぺろしたり、くるぶしに身体を擦り寄せてきたりする。そうした時に何にも与えられぬのは申し訳ない気持ちになるので、春の鞄にはいつでもしらすが入っている。
 夏は気持ちが溶けて動きたくない。
 水に浮かんで胡瓜をぽりぽり齧っていたいと河童のような願望を抱く。
 仕方なしに日傘や帽子で日差しを避けて外を歩けば、蝉やら雀やら鼠やら、色々な死骸が目についてクラクラする。ただし、蝉の抜け殻というのはとてもいい。眼球や細い脚の毛や腹の重なりや小さな皺までも全く見事に形状維持。それがあちこちに落ちているので、一等綺麗なものを見つけて拾ってきては、金魚鉢の隣に飾る。
 花火は線香花火がいい。じわじわ膨らむ熱球体と、そのまわりにはじけ出す火花。膨らみきってゆらゆら揺れる熱球体をわざと蟻の上に落として遊んだことを思い出しクラクラする。夏はその遊びをふと思い出し、蟻全般に申し訳ない気持ちになることがあるので、夏の鞄にはいつでも氷砂糖が入っている。
 秋は気持ちが穏やかになる。
 あてもなく近所を散歩してみたり、何に使うわけでもないのに、松ぼっくりやどんぐりを拾い集めてみたり、安心して無駄な時間を過ごす余裕と穏やかさが生まれる。
 散歩をする時は意外な方意外な方へと進む。そうすると「お、こんなところにパン屋」「へえ、この店たい焼きも売っていたのか」なんて発見があって、意外パンやら意外たい焼きにありつけたりする。
 木の実を拾う姿は大人も子供も可愛らしくていい。特に子供は「これだけあればしばらく安心だね」とか「は〜、助かるなあ」などと言いながら大量のどんぐりを拾い集めていることがあり、一体彼らはどんぐりを何に使うのか、食べるのか、彼らの食卓は縄文形式なのか、薬にするのか、クッキーにするのか、それとも武器か、などと推察が広がり面白い。

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