小説

『F・A・C・E』澤ノブワレ(『むじな』)

 俺は思わずその体を抱いた。いつもはウザったいとしか思わない、一緒にいて何の得もないと思うようなその丸々とした体を、俺は貪るように抱き締めた。
「ちょっとぉ、いきなり何よ。苦しいじゃない。」
 その声はかなり戸惑っていたが、少し嬉しそうでもあった。そのアルコールでつぶれた声を、そこまで愛おしく思ったことは初めてだった。
「どうしたの。何か、怖い夢でも見たの。」
 俺はコクリと頷く。女は、そうかそうか、とあやすように言い、俺の頭を撫でた。それが夜の女特有の処世術じみた優しさであったとしても、そこへ必死に縋りたいという衝動を止めることができず、俺は彼女の肉感あふれる肩に頭をこすりつけた。そしてその肉感あふれる頬に頬ずりする。ああ、この柔らかさ。つるりとした、凹凸のない、広大な大地のような感触。そう、どこまで行っても凹凸にぶつからない。どこまで行っても、どこまで行っても、どこまで行ってもどこまで行っても……アアァァァァ……チクショウ!!!!
 俺は女を思いきり突き飛ばす。ごろごろと転がるその巨体から、目が、鼻が、唇が、次々と飛び出ては、畳にばら撒かれた。
「ちょっと!何をするのよおぉぉ。私の大事なお目々とお鼻あぁ。拾わないとおぉぉ。拾ってよおぉぉ。早く拾ってよおぉぉ。」
 それは、あの異様にくぐもった声だった。声そのものがぐにゃりと湾曲して、ニヤニヤといやらしく笑いながら絡みついてくる。俺はそれを死に物狂いで振り払おうと、体をあらゆる方向に捻じ曲げ、手足をばたつかせ、腹の底から咆哮した。机にあった灰皿を手にとって、女の顔面に打ち付ける。何度も何度も打ち付ける。もしも俺が法廷に立たされたら、こう言うだろう。
「殺す気はありませんでした。気が済むまで何かを打ち下ろしたかったのです。」
 気の済んだ俺がドアを蹴飛ばして廊下に出ると、騒ぎを聞きつけたアパートの住人たちが出てきていた。ドアの崩壊音に全員がこちらを向く。表情は分からない。何せ表情を示すモノが何一つ無いのだから。俺は全速力で奴らの間をくぐり抜け、闇の中に飛び出した。

 どのくらい走っただろうか。道行く者たちは皆、顔のない顔で俺を振り返る。その視線――目は無いというのに、強烈な、突き刺すような――から身を守るため、下を向き、腕で顔を庇う。途中から、もはや自分が走っているのか歩いているのかも分からなくなっていた。気が付くとあの街灯が見えていて、そこには汚いコートを着た男が立っていた。見たことは……ある。もういい。もうウンザリだ。俺は、あの男を、見たことが、あるのだ。

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