小説

『谷中荘まで』柿沼雅美(『或る少女の死まで』室生犀星)

 谷中もやや根津の通りに近い高台の、坂の上にある木造の共用アパートは、5年前とあまり変わっていなかった。いつのまにか谷中荘という札がかかっていて部屋は畳が張り替えられているけれど、相変わらず静かで、入口は自由だった。表は、大きな屋敷の楓ばかりの見事な垣が続いていて、その通りは曲がって谷中の墓地や上野の方へと続いている。
 僕は唯一の荷物のリュックを押入れの前に放り投げて、ビール瓶のように部屋に転げ込んだ。窓を閉めていてもセミが耳元にいるような鳴き声が聞こえ、八月下旬の陽射しは意地が悪く入り込み、畳に触れた皮膚全てがぺっとりとした。
 窓も空いていないのに正方形の照明から垂れた紐がゆらゆらと揺れて、僕は何十分もそれを見ていた。
 ドアがコンコンと鳴る。自分の顔が強張ってくるのが分かり、そのまま動かずにいると、ドンドンと叩いたあとで、俺だよOだよ、と声がした。
 僕は飛び起きてドアを開けた。
 「よぅ」
 ポケットに手を突っ込んで立っていたOは、警察に事情を聴かれた日と同じシャツを着ていた。
 「おまえ、そのシャツ、まだ着てたのか」
 「いや、俺が誰だか分からないかもしれないなと思って一応」
 Oはシャツには似つかわしくない革靴を手に提げて、それをドアに立て掛けるように置いて部屋へ入った。
 「全然変わってないじゃないか、分かるよ。もうあれは思い出したくなかったのに」
 そう言いながら、この部屋に着くまでずっと思い出していたことに気づいた。
 5年前、僕とOはS酒場で絡まれるような形で男と殴り合いをした。相手は水商売を経営している男で相手が悪かったとしか言いようがなかった。大きなけがはなかったが、警察が僕らの家まで事情を聴きに来たり、男に高い慰謝料を求められた。
 僕は自分をたずねてくる者を恐れ、そのときに住んでいた家から当時のこのアパートへ引っ越したのだった。それでも慰謝料に充てた少しばかりの借金を取り立ててくる者がいて、いつまた事件とも事故とも分からないような出来事を蒸し返されるか分からず、故郷へ帰ったのだった。
 「今日ここに戻ってくるって言ってたから顔見に来たのに、なんですぐ出ないんだよ」
 Oは新しい畳を靴下で確認しながら座り込んだ。

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