小説

『神隠し沼』宮城忠司(白山麓民話『孝行娘』)

「オトウ、これ食べて元気出してまん」
「実は::オトウ、病じゃないぞい。斯く斯く云云で坊主と約束したんじゃ。それが心配で御飯も喉を通らん。ユキぼう::坊主の嫁は嫌じゃろうなぁー?」
 伝造は遠慮しいしい尋ねてみた。末娘は考えている様子でおも湯を伝造に飲ませていた。そして、確りと答えた。
「ウラ嫁に行く。オトウ、心配いらんわいね」
 思いがけない末娘の返事に、伝造は不覚にも涙をこぼしてしまった。急に暗い寝床が明るくなった。甘えん坊でどうしたら良いかと案じていた末娘だから殊更、伝造は感じ入った。
「あんがとう。ほんま、そうしてくれるんかい?ユキぼうが不憫やしなぁー、何でも欲しいもの言うてみい?遠慮せんと」
 ミユキは首をかしげながら思案している風だった。
「そしたら、米ぬか一俵と針千本ウラにくれんけ?」
 嫁支度の貯えもままならない貧乏暮しの伝造だったが、それぐらいは容易いものだった。
「そんなもん、直ぐに用意するぞ!安いもんやさかい::」
 翌日の昼に白装束の坊さんがミユキを迎えに来た。母は、末娘の嫁入りが余りに貧弱なので不憫に思い『気の毒な。気の毒な』を繰り返しつぶやいていた。永久の別れかも知れず、せめてもの情にと、娘に化粧を施していた。紅は畑で収穫した紅花を乾燥させ加工したものだった。草履(ぞうり)三足と草鞋(わらじ)二足を娘の腰に括りつけた。それは、娘の幸せを願う母からのまじないでもあった。
 伝造はミユキの背負子に米ぬか一俵を載せた。針千本はこっそりと昨日のうちに渡し済みだった。
 坊さんは一言も発せず山に向かって歩き始めた。ミユキは判然としないまま後を追うよりしようが無かった。誰一人通らない急峻な崖道を坊さんは登っていく。足を滑らしたなら、転げ落ちて命の保証は無かった。
 歩けど歩けど九十九折りの獣道が続き、目的地が何処か分からないせいで、ミユキは疲れ果ててしまった。言葉を交わすこともなく、唯ひたすら登り続けた。
 陽が落ちようとしていた。たどり着いたのは大きな沼の畔だった。周りは鬱蒼としたブナの大木に囲まれて薄暗く、水面は灰色に淀んでいた。小鳥の鳴き声も聞こえず、生き物を拒んでいるかのようだった。坊さんが疲れた様子もなくミユキに初めて声を掛けた。

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