小説

『神隠し沼』宮城忠司(白山麓民話『孝行娘』)

 坊主の顔色が変わった。聞き覚えのない呪文を唱え、杖の先で乾いた土をリズムよく叩き始めた。見る間に白山に雲が湧いた。風神のお出ましだろうか、突風で体が吹き飛ばされそうになった伝造は楢の木にしがみ付いた。    
 見る見る真っ黒な雲が青空を覆い隠し、ピカッピカッと稲光が走った。ゴロゴロ、グワンドッスンと雷が近くに落ちる音が聞こえた。そして、大粒の雨が落ちて来た。
 伝造は予期せぬ模様の激変で、怖れおののき身の毛が逆立った。坊さんに目を遣ると、ずぶ濡れになったまま立ちすくみ、それでも激しく呪文を唱え続けていた。今まで涸れていた沢が増水し、褐色に渦を巻き轟音を発して手取川へと筋を引き流れ込んでいた。ものの半時ぐらいの出来ごとだった。雨嵐が去った田んぼに並み並みと水が満たされていた。伝造は干ばつから救われた。
「これでどうや?伝造!雨を降らした約束じゃ。明日の昼、迎えに来るから。嫁のことじゃ」
 今にも死に絶えそうな稲穂が水を吸って生気を取り戻していた。それを見て安堵し呆けていた伝造は坊さんの言葉で我に帰った。約束とはいえ娘を嫁に出す気は消え失せていた。相手は四十面したみすぼらしい坊主である。娘と釣り合う筈もなく、伝造は娘達を不憫に思い
「それだけは駄目じゃ。さっきの約束は無しじゃ。その代わり何でもするさかい。このとおりじゃ」
 伝造は蠅のように手を揉み、頭を地面に擦りつけ許しを乞うた。坊主の顔つきが豹変した。
「何を言うか?伝造!約束は約束じゃ。約束を破るのは盗人、獣じゃ。娘たちに、どんな災難が降り掛かるか分からんぞ!そんでいいのか伝造?」
 坊主の恫喝に恐れを為して、伝造はしぶしぶ娘を差し出すことを約束させられた。すごすごと家に帰った伝造は心痛の余りそのまま寝込んでしまった。夕ご飯になっても起き上がることさえできなかった。
 伝造を思い遣った長女の娘が好物の料理を作って寝床へ運んできた。こっそりと娘の意思を尋ねるには好都合だったから、伝造は思いきって手短に坊主のことを話し問うてみた。
「オトウは約束してしもうた。すまんが、斯く斯く云云で、嫁に行って貰えんやろか?」
「ウラ、嫌じゃわい」
 上の娘はそそくさと襖を閉めて出て行った。暫くして、今度は二番目の娘が粥を盆に載せてやって来た。伝造は同じように尋ねた。
「ウラ、嫌じゃわい」
 二番目の娘も伝造を睨みつけ襖を閉める事もなく出て行った。伝造は塞ぎ込んでしまった。末娘のミユキがおも湯を手盆で持って来た。

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