小説

『山姥のその後』星ゆきえ(『山姥』)

「今日は村の人と話していて、元の寺にもどってもっといろいろなことを学びたい気持ちになった。おかねさんはこれからどうしますか。」知念がいなくなる。たった今のおれの夢は。膨らんだ体の芯が一気に裂けた。思いっきり叩きつけられた。自分のことしか考えていなかった。知念は若い。これからの人だ。いつまでもそばにいられないことは、わかっていたはずだ。勝っ手な自分だけの思いだけだった。すべてが吹き飛んだ。あの時、山姥と叫ばれた方がどれほどましか。飛び跳ねて姿を消すばねをもっていた。今は体の血をいっぺんに抜かれたみたいだ。どうしたら良いのだ。喉の奥にたまった酸っぱい唾をゴクンと飲み込んだ。まだ落ちきっていない陽がかねの目のあたりで小さく反射した。もっと前に、せめて清水のわき出るあたりで言ってくれたらと知念を恨んだ。いつの間にか知念の後ろを歩いていた。距離が離れだしたのにも気づかなかった。知念は振り向いて待った。そして言った。
「<火の用心>をあんなに喜んでくれたんだもの。おかねさんもみんなのために出来る事があるはずです。」知念は何も知らない。もう我慢が出来なかった。かねは泣きながら叫んだ。
「おれは山姥だ。人じゃねえ。なんで山姥なのかわからねえがみんな言う。何でも食うからか。人は食わねえ。人だって熊や鹿やうさぎを食うくせに。おれは、いつから山の中で暮らしているのかもわかんねえ。誰とも口をきいたこともねえ。きょうも<山姥だ>と言われそうな気がして、息を止めて、逃げ出せるように構えていた。生きた気がしねがった。村さ来たのを,後悔した。だども、知念さんのいないとき、おたつさんに<たつ>の字を教えてけろといわれて教えたら、それは喜んでくれた。次に来たときも教えてくれとな。もうおれは山姥ではねえ。逃げるのはやめようと心に決めたばかりだった。知念さんにもっと教えてもらおう考えていた。したが知念さんいなくなる。おれみたいな山姥に字を教えてくれる者は誰もえねえ。山姥に戻るだけだ。」かねの涙は、清々しさを感じさせた。黙って聞いていた知念が口を開いた。
「私は寺に捨てられていた。名前もなかった。おかねさんと同じです。和尚さんは苦しみをもつ人は、人の苦しみに添える人だと言っておられます。」知念はかねを見た。目には涙が光っていた。
「おかねさんはみんな私に話した。もう怖いものなぞないはずです。進む道は必ずあります。」かねの顔にはひからびた涙のあとがあったが、晴れ晴れとした表情だった。陽は落ちきって、ちわちわと虫が鳴き出していた。

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