小説

『山姥のその後』星ゆきえ(『山姥』)

「おれは自分の名前を覚えてえと前から思っていた。<たつ>はどう書くのだべ。教えてけろ。」かねはたつの横に座って、知念が教えてくれたように柴で灰に<た>と書いた。すぐに覚えた。<つ>も覚えた。たつは何回も書いていた。
「今日はおかねさんと会えて良かった。おら、やっと名前さ書けるようになった。この村の女の中で、自分の名前さかけるのはおらだけだ。なんぼう偉いことか。」たつは自慢げに笑った。
 昼飯が終わって、高い陽がようやく少しだけ傾きだした。帰り支度をはじめた。
「帰ってから飯の支度は大変だべ。凍み餅を持っていかんせ。こっちはキュウリだ。」たつ婆さまが桑の葉に包んだものを知念に持たせた。  
 まだ暑かったが、盛りは過ぎだしていた。来るとき水普請をしていた山肌から水のしたたれ落ちる澄んだ音がした。ここだった。来た時の焼けるような恐ろしさがよみがえった。
「ここは水がうまい所だから、夏は冷たく、冬はあ方たたかい。けものまで水飲みに来るって。でも冷たい水は田には良くないのだって。」村で聞いてきたのか知念は言った。あとどんな話が出たのか。かねは何も言わなかった。
 例の松林が見える頃、「腹が空いた。おかねさん。貰った凍み餅を食べよう。」知念は懐から葉っぱの包みを出しながら、草原に腰を落とした。
「手を出して。落ちるから。」かねに渡すと、自分のもそっと片方の手のひらで受けた。二人は大口を開けて詰め込んだ。水気の抜けきった寒の餅はぽろぽろと味はなかったが、うまかった。べつの包みから、きゅうりも出した。口の中でパサついた餅とキュウリの水気が混じって、かすかに甘い。もう一つ知念が渡した。
 誰も自分を知っていなかったのに、ほっとしていた。それに、あんなにたつは喜んでいた。おれはもう山姥ではねえ。かねになったと体の底から感じた。もうどんなことがあっても、逃げねえ。もっと知念から教わるんだ。これからの自分の道を思い描えて幸せな気分にしたっていた。
 暑さがようやく落ち着きだして、山中が息を吹き返してきた。空の色までが青臭い匂いを吸い込んで、丸く膨らみだしたようだ。知念と自分の影が大きくうっすらと空の中に映っているような気がした。しなっていた草の先がきりりと生きかえった。懐に入れていた櫛と鏡の重みが気持ち良かった。今までこんなにゆったりした景色を見たことがあったろうか。カラスが羽音をたてて飛び立った。
知念は立ち上がった。かねも立ち上がった。

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