小説

『山姥のその後』星ゆきえ(『山姥』)

「おかねさんは字を覚えるのが早い。もう二つの字を覚えたんだから。昼飯にしましょう。」はじめて<かね>と呼んだ。かねの椀に飯をよそり、皿にいたどりの油炒めを山のように盛った。
「私は大盛りにするから和尚さんにいつも小言われるけど、今はおかねさんと二人だから気楽に食べられて良い。それにおかねさんはおもしろいし。」
「飯のしたくをおれも手伝うよ。」山姥のかねの口から簡単に言葉が出た。
「それならおかねさんのぜんまいを食べたい。もどすには一晩水に浸せば良いのかな。それなら今日は泊まって、明日ぜんまいを煮てください。」知念は言った。
 その日かねはずーっと<かね>を書き続けた。夜になった。
「おかねさん、ここで寝てください。」老いた僧が櫛を持ってきた部屋だった。大きい仏を真ん中にそれよりも小さい仏が両端に立っていた。かねは何となく手を合わせてから、かねと指の先で闇に書いた。また書いた。そしてまた。なかなか寝付けなかった。
 翌朝、暗いうちに目を覚ました。知念を起こさないようにそっと仕切り戸を開けた。知念の布団はなかった。もう起きたのかと、少し驚いたがたいして気にもしなかった。背戸から薪を一抱え土間に運んで置いた。顔を洗い、自慢げに何度も髪をといた。石に腰を下ろして、指の先で空に<かね>と書いた。
「もう起きたのですか。」いつの間にか知念が立っていた。
「知念さんも早い。起こしては悪いとそっと戸を開けたが、もう布団もなかった。」
「私は布団を敷かないのですよ。今は暖かいし、面倒くさいから。」
「おれもそうだ。」空が少し白みかかってきた。からすが鳴いた
「今日はまた字を覚えましょう。囲炉裏に火をお願いします。わたしは米を洗うから。」
 朝飯を食べ終わると、知念は昨日のように灰に字を書いた。昼までに十字を覚えた。
「字の数は四十八しかない。明日までに半分は覚えられるでしょう。もう少し泊まって全部字を覚えたら。生半可に覚えてもすぐに忘れてしまうから。和尚さんも喜ぶでしょう。」
 字を覚えるのは楽しい。罠できつねやうさぎを捕まえたときもうれしいが、あれとは違う。そう、老いた僧から櫛をもらった時の、体が軽く空に舞い上がっていくような夢を見ているような楽しみ、あれと同じだ。かねは七日のうちに残りの字を書けるようになった。
「おかねさん。これで終わりました。どうですか。和尚さんに手紙をかいて見ませんか。喜びますよ。明後日(あさって)、寺に行く用事があるので、そのとき持っていきますから。」知念は紙と消し炭を渡した。なんと書いて良いのかわからなかった。知念に聞きたかったが、外に出たまま、なかなか帰ってこなかった。<字をおぼえたうれしい>と書いた。

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