小説

『山姥のその後』星ゆきえ(『山姥』)

「わしは町の寺に帰らなければならん。ここに若い知念だけ置いておくのは心配での。できることなら五日か十日にいっぺん顔を見に来てやって欲しいのだ。聞くところでは一人住まいの若い僧が、おおかみに食い殺されたの、きつねに化かされて遠くに連れ出されたの、と聞くのでな。」
「簡単なことだ。歩くのは苦にならん。」ぶっきらぼうに聞こえたが精一杯の答えだった。
 山姥は人を怖れた、まして会うことなんか。が自分でもわからないが、この若い僧、知念には心を動かされた。
 老いた僧は喜んだ。板戸の奥の部屋から布で包んだものを持ってきた。
「これをそなたにやろう。母の形見じゃ。わしが持っていても役にたたんものじゃ。」
 僧は包みを開いた。少し黄色味をおびた象牙の櫛と真っ赤なうるし塗りの手鏡だった。山姥にとってはこんな人臭い、洒落たものをつらつらと見るのは初めてのことだが、知らないわけではなかった。別の世界のもの、欲しいとも何とも思ったことも無かった。でも目の前で見ると心が騒いだ。
 山寺で晩飯を食ってから、山姥は一時(いっとき)ほどかけて自分の小屋に帰ってきた。昨日のことだ。
今朝早く目を覚ました。包みを開けてゆうべ寝るまで見ていたものをまた手に取った。隙間からさし込む朝日を受けて、象牙の柔らかい色合いが、ゆらゆら土間の上を泳ぐのを目で追った。鏡もテカテカと光っていた。裏側は赤い地に小さい白い葉っぱの模様が五つ六つあった。寝ていられなかった。
 鍋のものをかっ込むと、隅から干したさねかずらの実をひとつかみつかむと裏の川の石の上で叩いた。裸になって、その汁をぬらした髪になすりこんで、何度もこすった。前に洗ったのはいつだったかは忘れた。赤黒い水が滴れ落ちた。川の中に頭を突っ込んでもんだ。そして濡れた髪を振り回して水を飛ばしてから、指を立てた。固まった髪はまるで松ヤニでかためたように、がわがわと板のように固まったままだ。何度やっても同じだった。
 髪を束ねている女を当たり前のように見ていたが、あれは大変なものなのだとはじめて気がついた。どうしたものか、生半尺なものでは駄目だ。どうしたら良いか考えていた。ふっと猪や鹿やタヌキが湿った赤土の上で転がっているのを思い出した。体がかゆいからだとわかっていた。そうだ。あのねっとりした赤い土だ。裸のまま立ち上がると、少し高くなっている崖のふちまで歩いた。えぐられてむき出しになっている赤土を葉っぱに包むと、さっきの川のそばにもどって来た。そして濡れた髪になすり込んで,指の先が痛くなるほどもんで、川に潜った。ほどけた髪をながれに散らせたまま、首筋も乳も腹も股もこすった。川から上がって髪に指を入れた。ごわごわした感じはなかったが、濡れた髪は軽く絡んだ。頭の皮のぴっりっとした感じが気持ち良かった。体も軽く感じた。

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