小説

『玉手箱』東雲トーコ(『浦島太郎』)

 一日はあっという間に終わってしまう、というのが明人の毎日の実感だ。1階の作業室で受注品に特殊な塗装をし終えたので一休みするために3階の事務所に上がってみると、窓の外はすっかり暗くなっていた。作業を始める前、3つ目の打ち合せの後でクライアントと軽い夕食を食べた記憶はあったが、壁にかかった時計を見ると午前1時を過ぎている。2階の明かりはまだついていて、社員の一人がまだ作業をしていた。
明人は自分の椅子に深く腰掛けた。
 ふと、携帯電話が細かく揺れた。画面には「雪子」と出ている。明人はそれをじっと見つめた。それがどことなく陰のある感情だと知りながらも、この瞬間、明人は幸せを感じるのだった。雪子からの着信をただ見ている時に。
 もちろん一瞬は非常事態を心配するが、もしも緊急な事ならば留守番電話に残すだろうし、メールもするだろう。雪子にも、仕事中は電話に出られないことが多いので、緊急の時はそうするように伝えてある。幸いにも今までそういった用途で留守番電話やメールが使われたことはなかった。
 明人は立ち上がり、窓を開けた。しばらく唸りを上げていた携帯電話は完全に沈黙し、今は虫の声が響いている。明人は窓辺に寄りかかり、星の見えない空を見上げた。夏の夜の匂いが飛び込んできて、生ぬるい風が明人の頬を撫でる。明人は目を閉じて無防備に多幸感を享受した。
 その後仕事場で作業をした明人が家に戻ったのは午前3時を過ぎていた。

 翌朝、明人はぼんやりとベッドの上でまどろみながら、昨夜の電話の用件を雪子に聞こうと思う。リビングではいつも通り小さく音楽が流れていて、挽きたての珈琲の香りが微かに漂い始めた。
「おはよう」
 寝室から明人が声をかける。
「おはよう」
 雪子はセットしたドリッパーにお湯を注ぎ始めた。
「髪の毛、ずいぶん短くしたんだね」
 珈琲の匂いに誘われるようにリビングに入ってきた明人が言った。背中の中ほどまであった雪子の黒い髪の毛は肩の上までになっていたのだ。新しい髪形は今まで隠れていた彼女の首筋と鎖骨を美しく見せている。

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