小説

『玉手箱』東雲トーコ(『浦島太郎』)

 今このスタジオでは明人の他に社員が2名、アルバイトが3名、常時働いていて、忙しい時には友人のスタジオから人手を借りたり、美大生のアルバイトを短期的に雇うことにしていた。
 明人は毎朝満足げに自分のスタジオを見上げる。しんとして冷え切った作業場を通り過ぎて奥の階段から3階の事務所にあがり、光溢れるフロアに立った瞬間、満ち足りた気持ちになる。たいてい明人が一番乗りで出社し、この瞬間を味わうのだった。
 事務所に入ると直ぐに3面が窓の四角い部屋がある。その中央には大きな一枚板のテーブル。そこから少し奥まった位置に明人と社員2名それぞれの机とパソコンが置いてあり、さらに奥には小さなキッチンがある。3階は主に打ち合わせや事務作業が行われる場所なので、制作作業や製図のために雇われているアルバイトは、休憩の時以外は3階に上がってくることはなかった。
 明人は小さな小窓がある部屋の奥の角を自分のスペースとしていた。経年により艶の出たオークの机と品の良いミントグリーンの布張りの椅子。机の上にはシンプルな仕様のデルのパソコン、アンティークのテープメジャー、ラミーのボールペン、ロディアのメモ用紙だけがある。
 好きなものに囲まれて生活する、ということを幼い頃から大切にしていた。そのような生活をするためにどうしたらいいかを明人は物心がついた頃からずっと考えていた。幼い頃に話し方がゆっくりであることをからかわれて、自分の殻に閉じこもりがちだったことも影響しているかもしれない。
 徐々にスタジオに人が集まりはじめると、明人は事務所のキッチンで珈琲を淹れる。毎朝10時に社員とアルバイトのミーティングがあり、一日のスケジュールを確認することになっていた。ミーティング後は、現場確認に向かう社員、明人との打ち合わせに同行する社員、1階で作業するアルバイトなど、持ち場に散り散りになっていく。
 今日の明人は打ち合わせが3本、進行中のプロジェクトの諸々の確認、明日のプレゼン資料の作成、それから明人自らに指名が入っている受注品の最後の仕上げがある。搬入・搬出がない分、いつもよりはゆっくりとした時間が夜に取れる見通しだ。仕上げに余裕を持ってとりかかれるのは明人にとって何より嬉しいことだった。
 受注品とは、形や素材などを細かくアーティストから指示され、それを明人が再現する「作品」である。明人はそういったたぐいの制作を得意とした。密にコミュニケーションをとってアーティストの脳内や深層心理に触れること、その具現化のために新しい形や素材や手法を見出すこと、気の遠くなるような手作業、それらは明人の能力を最大限に生かせるものであり最も刺激的な仕事だった。

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