小説

『檸檬爆弾』荻野奈々(『檸檬』梶井基次郎)

 彼女は棚と棚の隙間をぬうように歩き、ときおり立ち止まって何かを眺めたりした。色とりどりのリュックにまぎれて黒いミラーボールが吊り下げられていて、七色の光がつぎつぎと彼女を照らしては通り過ぎていった。彼女は料理コーナーで、主婦のための料理雑誌の横に、毒殺について言及した小さな本が置いてあるのを目にした。健康的なものと不健康なものが、境目をあいまいにして雑居しているこの空間が彼女は好きだった。ここにあるものすべてが人々のいのちを持続させるための活動にはなんら関係がないことも、彼女を安心させた。彼女は一冊の本を手にとった。一般的な厚さの文庫本だった。猫の耳を切符切りでぱちんとしてみたいだとか、猫の手をお化粧道具として使う貴婦人を妄想したり、最後は猫の手をまぶたに乗せてにゃんと温かいのか、というような内容の話が収録されていた。こんな話を誰かに伝えようとするなんて、いろんな人がいるのだ、と彼女は思いながら本を閉じた。
 彼女は何度も何度も店内を循環した。雑多な店内は死角が多く、彼女の姿はすぐに他の客から見えなくなったが、代わりに突然彼女の目の前に誰かが現れることもあった。便器の形をした悪趣味なカレー皿や、シャボン玉のピアス、出席簿を模した寄せ書きカードなど、同じアイテムを彼女は何回も目にする羽目になった。店の中にいる客が極端に少なくなる瞬間が来た。彼女は周りを注意深く見回した後、左手首にかけたビニール袋から黄色いカタマリをひとつ取り出した。熱くなった手のひらに、それはちょうどいい冷たさだった。彼女の目の前には、最近出たばかりの人気少女マンガの新刊が積み重なっていた。短い前髪から困ったような眉毛をのぞかせた女の子が、背の高い男の子のブレザーの袖をつかんでいる。最近映画化されるということで、彼女のクラスでも話題になっているものだった。
 彼女は全身の熱が手のひらと脇の下に集まっていくような気がした。反対に首の後ろから背中にかけてが、さあっと冷えてゆくような感覚だった。レモンは変わらずにひんやりとしていて気持ちがよかった。彼女はおそるおそる檸檬を持った右手を前に出した。そのまま彼女は秘密道具で時を止められたかのように動くことが出来なかった。先ほどの抑揚のない不気味な音楽が常に聞こえていたが、実際に彼女の耳に届いているものなのか彼女には分からなかった。そうそう、最新刊出てるんだった。まじか、アレでしょ、建都くん出てるやつ。急に同年代の女の子の声が聞こえてきて、彼女の体の硬直が解けた。彼女はすばやく檸檬を投げ捨てた。檸檬は漫画の山に着地した後、寝返りを打ち続けるように転がっていって、床の上に落ちた。彼女は風のように駆け出した。狭い通路を移動する際に、いくつかの品物にぶつかったが、振り返ろうともしなかった。息さえ出来なかった。彼女はその店舗が入っているショッピングモールの外に出た。足を止めた瞬間に流れこんできた酸素が、一気に体中の血管をめぐってくらくらとした。

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