小説

『檸檬爆弾』荻野奈々(『檸檬』梶井基次郎)

 黄ばんだ鋭い明かりが朝から晩まで往来を照らし続ける地下鉄のホームで、一人の少女が学校指定の深緑のスクールバックを肩にかけ、ひんやり冷たい青いいすに腰掛けていた。光の下で人工物のようにほんのりと光る彼女の手の上には小さな単語帳が開かれ、いちまいいちまいの紙に異国の言葉がひとつずつ、載せられている。地下鉄のホームをいくども、生ぬるい風が通っていった。人間の認識に新しい、おどろおどろしい地底の空間から吹いているといわれても、何の違和感もしないような風だった。電車がやってくる両方向の、グラデーションになった闇の気配は、ホーム内に満ち満ちていた。
 電車の到着時刻が近づき、ホームにも人が集まりだしたために、彼女は立ち上がって点字ブロックにつま先をあわせた。電車が参ります、点字ブロックの内側にお下がりください、すいません、いつもお世話になっております、はい、ええ、その件ですが先方にお伺いしたところ、まじか、結局行ったの、先輩にめっちゃ誘われてたもん、あそこで行かなきゃまずいっしょ、でもさ、聞いて、はい、なるほど了解いたしましたまもなく電車が到着いたします。声は彼女の鼓膜をすっとなぞっては、鈍い振動を与えて消えていった。その中で。
「あの」
 その声だけが彼女の意識にはっきりとした輪郭をつくりだし、彼女はけだるげに振り返った。紺色の浴衣を着た無骨そうな男が立っていた。どこかでお祭りあったっけ、と彼女は瞬時に考えをめぐらせたが、思い当たるふしはなかった。男は重量感のある骨格で、目のまわりの皮膚が少し盛り上がってまぶしそうな表情をしていた。どんとした厚い唇をかみ締め、おせじにも美男子とはいえなかったが、彼の周りだけ重力の働きが違うかのような、妙な迫力を漂わせていた。彼は大きな手で、スーパーのビニール袋を彼女のほうに突き出した。
「え」
「檸檬です。置くと爆発するので、このビニール袋に入れて持ち運んでください。」
 彼女のまつげが、ばちばちと揺れた。男は見えない透明な糸に引っ張られているかのように口角を上げた。彼の目は地下鉄の進行方向の果ての色をしていた。
「汽車が来ましたよ」

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コメント
  • http://bookshorts.jp/ bookshorts

    微妙に歪んだ世界観、現実と非現実の隙間に落ちてしまった少女の話、という印象が強く残ったため。
    檸檬爆弾を扱う少女の手つきが目に浮かぶ。
    檸檬のあの爽やかで、どこかもの悲しい香りが読んでいるうちに漂ってきた。(7月期優秀賞受賞者:ナガシマルリ)

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    人それぞれ好みの言葉の流れ方とか音、とかリズム感とか。そういうのがあると思うんですけど、この作品はすごい僕の好きなタイプの文章で。よかったです。でも僕、あんまり上手い読者じゃないから、手渡された檸檬が、実際的に爆弾として爆発していたのか、それとも何か内面で起こる感情の破裂を描いていたのかどうかとか、分からないんですけど、最後の「カチリ」でプツンと宙ぶらりんで終わらせるとことかも、好きですねえ。なんか僕とんちんかんなこと言ってたら申し訳ないんですが、面白かったです。もっかい読んでみます。(7月期優秀賞受賞者:ノリ•ケンゾウ)

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    独特のリズムに吸い込まれるように読み進めました。地下鉄のホーム、賑やかな雑貨店、爆弾の炸裂と言った『動』の描写の根底には常に冷たい『静』があり、一見平凡な少女の内側にも『静』と『動』の分裂があり、その裂け目に檸檬爆弾がすっぽりと嵌ったのだろうと思います。『カチリ』という音が今にも耳元で聞こえてくるようでゾクリとしました。(7月期優秀賞受賞者:木江恭)

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    描写から浮かんでくる白色や黄色のイメージがきれいだと思いました。特にプールの場面。(7月期優秀賞受賞者:東雲トーコ)

  • nail

    文体がいいですね。不穏な感じが伝わってきます。