小説

『ドアの声』あおきゆか(『塀についたドア』H・G・ウエルズ)

 ゾウアザラシの咆哮を眺めていると、ふと頭の中に言葉が現れた。はじめはぼんやりと、そのうちにしっかりとした形を持った文章になった。どこからやってきたのかわからないけれど、今までの自分では考えつかなかったようなアイデアがわいてくる。
 それは、本を読んでいるときに感じるのとはまったく違う興奮。ざあっと高い波にさらわれて空の中に放り出されるみたいな。
 しかし頭の中にあるものだから、ここにある本と違ってすぐに書き留めなければ消えてしまう。どこかに書くものはないだろうかと、僕は奥の部屋に飛び込んだ。机の引き出しを開けると、分厚いノートブックが一冊入っている。

「それを開けてはいけない」
 また、声だ。
「どうしてです、何か見てはいけないことでも書いてあるのか」
 僕は誰もいない空間に向かって問いかけた。
「それを開けてはいけない」
 声は同じセリフを繰返した。どこかにスピーカでも隠してあって、引き出しを開けると自動的に音が出る仕組みなのか。
「姿も見せないやつに、あれこれ指図されたくないな」
 声に逆らってノートを開いた。そこには文字がびっしり書き込まれていた。何枚めくってもやはり文字だらけ、結局最後まで余白は一文字分もない。
 そうしている間にも明け方に見た夢みたいに、文章がこぼれ落ちていく。
 ―はやくほかのノートを見つけなきゃ・・・。
 部屋から飛び出て、隣のドアをつかんだがノブが回らない。その向かいもその隣も、同じ。ドアはひとつも開かなかった。白い紙は一枚もないのに、頭の中は真っ白になっていく。
 腹が立ち、ドアに体当たりした。弾き飛ばされて立ち上がると長い廊下は消えていた。僕を弾き飛ばしたのは本日休業の札がかかっているナカノ内科のガラス扉だった。ほかにドアなんかひとつもなかった。

 一時間電車を待って家に戻ると、その夜から高熱が出て三日間会社を休み、ようやく起き上がれるようになったときには、あの部屋で読んだ本の内容を一行たりとも思い出せないことに気がついた。もちろんあふれていたアイデアも霞のように消えていた。

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