小説

『ドアの声』あおきゆか(『塀についたドア』H・G・ウエルズ)

 気味が悪くなって、僕はソファから立ち上がるとエレベーターの方に向かって、足音をたてないように早足で歩きだした。突然ドアが開いて中から声の主が出でくる可能性もある。
 まん中あたりまできたとき、緑色のドアがあるのを見つけた。さっき通ったときはすべて同じ木目調のドアだった。しかもそこだけ両隣のドアと間隔が大きく開いている。

「入ってもいいぞ」
 また声がした。しかも今度は緑のドアの奥から聞こえたとはっきりわかった。
「・・・」
 僕は黙っていた。
「入らないのか。それなら、なぜ緑色と言ったんだ?」
 声がいら立ち始めた。
「あの・・・窓のそばに緑色のソファがあったので、なんとなく」
「緑色のソファだって?そんなものはないぞ」
「え?」
「見てみろ」
 声に言われて廊下の突き当たりに目をやると、そこには大きな窓があるきりで緑色のソファもじゅうたんもなくなっていた。
「でも、さっきはたしかにあったんです」
「まあいいから入れ」

 僕はおそるおそる緑色のドアノブを回した。ドアは中から誰かが引っ張ったみたいに勢いよく開いた。
 最初に目に入ったのは開け放された大きなフランス窓だ。レースのカーテンが風に膨らんでいる。外から想像したよりもさらに部屋は広かった。声の主はどこにも見当たらない。板張りの床がきゅ、きゅ、と小気味よい音を立てる。壁には作り付けの書棚が天井まで続いている。
 部屋にあるのはそれだけで、奥にドアのない戸口があってその向こうに小部屋が見えた。声の主はそこにいるのか。
「どなかたいませんか」
 答えはなかった。

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