小説

『ドアの声』あおきゆか(『塀についたドア』H・G・ウエルズ)

 僕はたちのぼるコーヒーの香りをかぎながら階段を降りようとした。そのときふと、壁際に設置された集合ポストが目に留まり、そこに「ナカノ内科」という文字を見つけた。
 ―そうだ。今はコーヒーなんか飲んでる場合じゃないぞ。せっかく早引けさせてもらったっていうのに、こんなところを課長に見つかったら何を言われるか・・・。
 僕は階段を降りるのをやめて、エレベーターに乗り込んだ。
 まったく、我ながらなんたる小心だろうか。
 そう思ったとたんに胸の中のざわざわが大きくなった。うなだれる僕を乗せて、エレベーターは一度も止まらずに七階に着いた。
 ドアが開く。てっきり着いたらすぐそこが病院だと思っていたのに灰色のカーペットが敷かれた長い廊下がまっすぐ伸びている。廊下の両側にはえんえんとドアが並んでいるのだが、これがまたおかしくてドアとドアの間隔が奇妙に狭い。中はどうなっているのか知らないが、これじゃあ机ひとつくらいしかおさまらないんじゃないか。なんにせよ、さっき外から見たときのビルの細さに対してこの廊下は長過ぎだ。
 病院の看板がかかっていないかどうか、ひとつひとつのドアを調べながら歩いたが、どこにも見つけられないまま廊下の端まで来てしまった。そこはどうやら休憩スペースのような場所になっているらしく、薄い緑色をした毛足の長いじゅうたんが敷かれ、同色のソファが置かれていた。縦長のはめ殺しの窓からは午後の光がたっぷり射し込んでいる。
 ―さて、どうしたもんかな。やっぱり地下に降りてコーヒーとサンドイッチを注文しようか。
 だが不思議と、もう腹は減っていない。何気なく緑色のソファに腰を下ろすと、クッションがちょうどいいやわらかさですごく座り心地がよかった。緑のじゅうたんに緑のソファなんて、なんだか擬態している昆虫になったみたいだ。それに緑というのは心が落ちつく色だという。
 僕は目を閉じると、「みどりいろ」と声に出してつぶやいてみた。
 そのときだ。
「入ってもいいぞ」
 誰かの声がした。
 目を開ける。だが長い廊下には僕以外、誰もいない。
「入ってもいいぞ」
 まただ。男の、低い声だ。
 いったいなんだっていうんだ。

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