小説

『美しい人』澤ノブワレ(『雪女』)

――しかし、その穏やかな時間の中で、僕は密かに葛藤を抱えておったのです。父と母の間には、結婚してから暫くの間、子が出来ませんでした。ですから、彼らが若くして結婚したにも関わらず、僕が生まれ、母が代わりに命を落とした頃には、父は相当に年を取っていたのであります。つまるところ、母の若い頃に似たユキの姿は、どれだけ父と仲良く寄り添っていても、僕が自分に必死で言い聞かせてそう思い込もうとしても、やはり父の妻には見えなかったのであります。そして、父の妻でない彼女のことを、僕が母親と思い込むこともまた、出来なかったのであります。彼女の腕に包まれるとき、僕は無償の愛に対する幸福だけではない何かを感じておりました。父と彼女が腕を組んで歩く姿を、激しい動悸を抑えながら見ていたこともありました。もっとも、まだ幼かった僕には、その感情が何であるのかなど、はっきりとは分っておりませんでした。それに、そんなことよりも、ユキが来てから父が優しくなったことが嬉しくて、平穏と幸福を壊したくなくて、本能を押さえ込んでいたのかもしれません。

――そうやって、誰かが完全に幸福で誰かが完全に不幸なのではなくて、胸の支えはあっても、みんなが幸福な日が続いていけばいい。僕はそう思っていたのであります。

――その日、僕は学校に向かう道すがら、ふと頬に違和感を感じたのでありました。立ち止まって、空を見上げて見ると、白く立ち込める自らの吐息を割って、更に白く細かなものが静かに舞い降りてきたのであります。僕は非常に感動しました。何故ならば、それは生まれて初めて体験した雪であったからです。父が小さな頃、雪は珍しいものなどではなく、季節になれば必ず空から降っていたそうでありますが、彼が大人になる頃には殆ど見かけなくなり、僕が生まれた頃には全く降らなくなってしまったそうであります。不思議なもので、父の話や古い映像を通してしか知らなかったそれを、僕は瞬時にして雪であると判断できたのでありました。その頬や首筋にかかる冷たい感触は、ユキの腕のそれと似て、とても心地のいいものでありました。ずっと、この降りしきる雪に包まれていたいと思いました。首筋に雪をあて、つらりと解けた水滴を指先でなぞり、大事に大事にその感触を確かめました。雪で冷えた自らの指を愛しき女性の指に擬態させ、首筋をなぞる指の感覚を延々と独占いたしました。そうする内にだんだんと、胸が苦しくなってきて、あの動悸が襲ってきて、涙が溢れ出てくるのでありました。どういうわけかユキが不憫に思えてきて、囚われの姫様のように思えてきて、彼女を助け出したいという訳の分からぬ渇求を覚えたのであります。
 

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