小説

『あの子は月にかえらない』池上幸希(『竹取物語』)

「もうちょっと、オイルを塗って」
 カーテンのすき間から、せみの声がもれてくる。うす暗い部屋で見ても、ばあさんの背中はするめみたいでぞっとする。家の中でも車椅子のせいか、骨と皮だけで不気味だ。この家に来てからというもの、誰もいない時間に部屋に呼ばれ、オイルを使って裸の身体をなでるよう強いられていた。秘密だと言われ、こわくて誰にもしゃべったことはない。でも、ばあさんの要求はどんどん気色悪くなっていく。ぼく自身ももう、限界だった。

「それって、ひよの浴衣?」
 玲央が、ハンガーラックに下がった黒地に朱い椿模様の浴衣に気づいた。日夜子が仕事で東京に行った際、事務所の専務が買ってくれたものらしい。おばさんが、夏祭りに連れていってくれるのだという。最近おばさんは、日夜子のマネージャーのように面倒見がいい。
「ここなら、花火もよく見えるだろうね」
 充希が窓の外の青空を見つめてつぶやくと、達と統が顔を見合わせた。
「花火の音にまぎらせて…」
「ちょうど二人もいなくなる」
 コンコン、とドアをたたく音がした。瞬時に、部屋の空気が凍りつく。
「おやつですよー」
 緊張感のない声で、いっせいにため息がもれた。日夜子はドアにストッパーをかけ、お盆いっぱいに乗ったジュースとお菓子を運びこむ。すとんと腰をおろしたので、追い払うと無垢なくちびるをとがらせた。再びドアが閉められ、統はジュースを一気に飲み干した。
「車椅子のさ、ネジをゆるめておくって、どう?」
 正面から出入りすると向かいのおばさんに見られるので、達がタヌキの抜け穴を通ることを提案した。
 

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