小説

『桜桃の色の朝陽』柿沼雅美(『桜桃』太宰治)

 涙の谷だ、と思った。どこまで続くか分からない谷、女であることを逃れられない谷、聡史とえれなが求める谷、そこに私の涙が人知れず浮き上がっては枯れていくのだ。
 皿を洗い終えたところで、マグマグの消毒をする。半透明の短いストローを外し、シリコンで出来たつなぎ目をはがし、洗う。温めるだけの離乳食や、腰のシールだけでぴったり止まるパンツのようなオムツが普及しているのに、どうしてこれはいつまでも細かいパーツをひとつひとつ分解しなければ汚れていくんだろう、と思う。
 シャワーを浴びた聡史は、ビール残しておけばよかったー、と言いながらえれなのもとへ行った。小さくえれなのぐずりが聞こえ、瞬間的に大きくなり、泣き声に変わった。聡史は、えれなを抱いて私のところへ戻ってきた。
 起こしたの? と聞くと、起きちゃってたんだよごめん、すげぇ泣いてるいつもこうだっけ? と私の顔を見る。私は、いっつもこうだよ、と返事をしてえれなを抱っこした。泣き声が小さくなると、やっぱり母親のがいいんだなぁと、たいして残念そうでもなく言い、あくびをしながら布団に入っていった。心の中で、この状況で寝るんかい、と突っ込みたくなったが、えれながまだぐずっているので、静かにおしりと背中をとんとんと撫でた。
 えれなを抱っこしたままソファの隅に座ると、夕方のニュースがすでに夜のニュースになっていた。夕方にも見た子供が親を刺してしまった事件に、分かったような顔をしたコメンテーター扱いの女優が、お友達や学校に相談できる環境が必要ですね、本当なら親が子供にとって何でも言い合える存在でなければいけないでしょう、などとキャスターと言い合っている。会話も満足にできないから分かり合えないんじゃない、この家族はきっともう分かり合いたくなくなったんだ、と思った。女優は、私だったらこうする、私だったらこうできる、となお話しているが、そりゃそうだろうと思う。ディスポーサーの付いた生ゴミの処分に心配ないキッチンで料理をし、仕事があるときには人に見てもらいそれが難しいときには現場に連れていってスタッフに見てもらう、子供には職人の作った木製のおもちゃが与えられ、親は疲れたら気持ちのいいベッドで眠る。そりゃあそうできるだろう、と思う。ママになっても綺麗だから女優ではないのだ、女優だからママになっても綺麗なのだ。
 

1 2 3 4 5 6 7 8 9