小説

『走れ孫よ』及川明彦(『走れメロス』太宰治)

 叔父さんの人差し指は何度もハンドルを叩き、ブレーキを踏む足は小刻みに上下している。僕も顔や言葉には出さないものの、叔父さんと同じ焦燥感がこみ上げていた。
「……これなら、走った方が早かったかもな」
「そうだね」
 そこからの僕は早かった。シートベルトを外し、車の助手席から歩道に出る。ドアが閉まる直前まで叔父さんは何か大声で言っているようだったが、もう僕は革靴で松島の観光道路を走り出していた。
 走った方が早いだのと叔父さんは軽い気持ちで言ったのだろうが、現代っ子にはあまり冗談を言うものではない。真に受けて、本当に飛び出して行ってしまうのだから。
 観光客達は目を丸くして僕を見ていた。笑いながら指差す人もいた。それもそうだ。喪服と革靴で先を急ぐ青年など、奇異でしかない。正直言って恥ずかしかった。学校では目立たないグループに所属し続けていた僕には、観光客の視線は日差しよりも身体を熱くした。
 慣れない革靴が踵を削る。痛みが走り、靴下の中ではきっと血が滲んでいる。だけど僕は走った。途中で少し歩いて息を整えても、またすぐに走り出した。
 歩道橋の階段を駆け上がる時は本当に大変だった。額に汗を浮かべ、運動不足の足がきしむ。それでも一段飛ばしで必死に上り、眼下で濁流のように流れる車の川を超えた。車に乗っていたままの方が早く着いたかもしれない。だけど後悔してももう遅い。僕にはただ、走ることしか手段は残されていない。
 途中で見知らぬお婆さんに瑞巌寺までの道を聞かれた。何故数ある歩行者の中で、喪服で走る僕を選んだのか。無視して走り去ってしまおうか。だがそんな考えもすぐに消え、お寺までの行き方を教えてあげた。死んだ人間より、これからを生きる人間の方が大事だから。何故か父さんの言葉を思い出した。
 喉が渇き、始めの頃より走る速度は落ちている。もう間に合わないかもしれない。間に合わなかったら僕だけでなく、父さんまで親戚達からのヒンシュクを買うだろう。馬鹿なことをしたと、あのまま叔父さんの車に乗っていれば良かったものをと、何度も思った。
 

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