小説

『蛤茶寮』水里南平(『蛤女房』)

 また『蛤』が……逃がす。釣り場を変えても『蛤』が……逃がす。何度でも『蛤』が……その都度、逃がす……
 分かった-
 昔話の『蛤女房』というオチに違いない。この後、我が家に女性が現れて、美味しい料理を作ってくれる。但し、その出汁は『尿』……などと考えつつも、あほらしいと思い、釣りをあきらめて海を後にした。

 私が営む定食屋は、1階がホールと厨房、そしてトイレ。2階が、9畳、6畳、6畳の居室になっている。風呂はない。今は亡き祖父、その代から営業をしているため建物自体は古い。住んでいるのは私1人だ。両親と弟が、東京に新居を構えてはいるが疎遠であった。
 ある日の夜中、私が店内の清掃をしていると誰かが訪ねてきた。うら若い女性が1人。しかも、唐突に、この店に住まわせてくれと言う。再び、『蛤女房』の話が頭をよぎる。
(いや、あり得ないな。鶴や狸ならまだしも……)
「お願いいたします。私には行くところがないのでございます」
「……」
「後生です。ここに住まわせて下さいませ。必ずお役に立ちます故、お願いいたします」
「……」
「料理でも、炊事でも、賄いでも、何でも申しつけて下さいませ。あなた様を、ご主人様と崇めてお仕えいたします」
(料理ばかりだが……)
 必死の懇願である。私は困惑したが、断ることができず彼女を店の中に入れた。
 この夜、彼女は、彼女自身の強い希望もあって、ホールで1人眠った。
 

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