小説

『蛤茶寮』水里南平(『蛤女房』)

 海-
 しがない定食屋を営んでいる私は、店が休みの日には唯一の趣味である釣りをする。今日も朝から、人気のない防波堤の上を歩いていた。すると-
(蛤?)
 コンクリートの上に蛤が、しかも、私の両手のひらよりも大きなやつが、中身をデロッと出して転がっていた。死んでいるのか、生きているのかは分からない。
 私は蛤を拾い上げ、
「できれば生きるんだぞ」
と、そっと海に放した。
 私は蛤を気にしつつ、少し離れた場所で釣り竿を垂れた。
 昼前になっても、釣果はほとんどない。釣れればそれはそれで嬉しいのだが、釣れなくても物思いにふけられるこの時間が好きであった。元来が欲のない性格なのである。定食屋も1日に10人ばかりのお客が入る程度で、自分自身が食べていくのに精一杯である。それでも、お客が「美味しい」と時折にでも言ってくれるこの商売が好きであった。
 竿に引きが来た。リールを巻くが、魚が逃げ回る抵抗感がない。
(海藻かゴミでも引っかけたか?)
 針には、先程逃がしたらしき蛤がぶら下がっていた。
「生きていたか……」
 私は喜び、蛤を再びそっと海に逃がしてやった。そして、釣りを続ける。
 

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