小説

『天女雲』小林睦美(『天女の羽衣』)

 「ねえ。天女って知ってる?」
 いつもの学校の帰り道。いつものように自転車を引きながら川沿いを歩き、いつもの河川敷に座り、いつもと変わらない声で結衣は言った。
「私のお母さんってね、天女なんだって。」
 あまりにも普段と変わらない結衣の調子に思わず、
「へぇ、そうなんだ。」
と言ってしまった。そんな僕に、逆に結衣が驚いてこちらを見た。数秒遅れでやっと、結衣の発した言葉にクエスチョンマークがついた僕も、結衣のほうを見た。僕達はびっくりした顔をしてお互いの顔を見合った。
 そして、結衣はふふっと口元を緩めて、目の前の川の流れに視線を戻した。少し俯いた結衣の横顔は、「ああ、そうか。だからこんなに綺麗なんだ」と思わせるような、優しくて美しい横顔だった。

 結衣は高校1年の途中から、僕の町へ引っ越してきた。突然やってきた転校生は、もちろん生徒たちの注目の的となった。結衣はその頃から大人びた顔立ちで、明らかに他の同級生の女子達のそれとは違っていたから、初めのうちは何人かの男子から声を掛けられたりしたし、前の学校での恋の話などを、きゃあきゃあ言いながら聞こうとする女子もいたが、結衣のあまりにも素っ気ない態度のおかげか、半月もすれば結衣に話しかける生徒はほとんどいなくなった。
 そんな結衣と僕が今こうして一緒に帰っているのは、偶然にも、自転車の鍵をなくして困っていた結衣を見かけて、家まで送ってあげたことがあったからだ。その日から僕達は毎日一緒に帰ることになった。あの日のことがなければ、僕達はただのクラスメイトのままだっただろう。

「私の家って父子家庭じゃない。お母さんが小さいころに病気で死んじゃったっていうの、あれ嘘なんだ。ほんとは私が小学生の時に突然いなくなっちゃたんだよね。」
昨日の雨でいつもよりも水位が高く、いつもよりも流れの早い川を見ながら、結衣はお母さんのことを話し始めた。
「お母さんのこと大好きだったんだ。花が好きでね、うちの庭にいつも花がいっぱい咲いてたの。料理は苦手だったけど、お父さんと二人で台所に立って、いつも楽しそうに歌いながらご飯を作ってくれてた。ほんと、すごく優しくてね。」
 結衣はこちらを見ずに、前を向いたまま、くくっと笑った。
「…天女かぁ。なんか納得。」
足の前で組んでいた腕をほどき、一度、頭の上で大きく伸びをした。
 

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