小説

『BUNBUKU-CHAGAMA』星見柳太(『ぶんぶく茶釜』)

「でも、このお湯全然熱くないぞ」
 言われて幸平は気づいた。確かに、先程まで煮立っていたお湯のはずなのに、今は全然熱くない。それどころか、なんだかいい匂いまでする。顔に飛んできたものを舐めとってみると、今まで味わったことのないような濃厚な甘みが舌を刺激し、身体の隅々まで染みわたるような美味しさだった。
「こりゃあ甘露の雨じゃのう」
 机から這い出した住職が、両手に液体をためてそれを飲み干した。悲鳴をあげていた他の客も、茶釜がこちらをを避けるように飛んでいると気づいて、今はその甘露の滴を味わうばかりである。
茶釜の撒き散らすものは次第に増えていく。桜吹雪に紙吹雪、手毬にだるま、張り子の赤べこ、極彩色の蝶々や、宙を泳ぐ錦鯉。店の中は、おもちゃ箱をひっくり返したようになっていた。
 やがて空飛ぶ茶釜は店の中央にとどまった。その場で尚も回転し、その速度は上がっていく。中からまき散らす液体が茶釜の周辺で霧となり、更には雲となってまとわりつく。その雲は白、桃、赤、緑、黄、青、紫に金銀と、見る間に色を増やしていった。そうして茶釜は、回転が収まってくると同時にとぐろをほどいていき、次第に身の丈一メートルほどの、ミニチュアサイズの龍となった。
「これが茶釜の化け術、分福狸の本領です。お集まりの皆々様、ご高覧遊ばせられましたなら、どうぞ拍手喝采を!」
 龍となった福右衛門が叫ぶと、店内は万雷の拍手が響き渡り、それはもう大変な騒ぎとなった。その様子を眼下に眺め、悠々と宙を泳ぐ福右衛門の表情は、とても満足そうであった。
「下戸なんてとんでもない。酔っ払って龍になるとは、こりゃ相当の大物じゃ」
 住職は呵呵と笑った。幸一も笑った。店中が甘い香りと、明るい笑いに包まれた。分福茶釜、恐るべし。すごい狸に出会ったものだと、幸平はしみじみ思っていた。
「Hey, that dragon is your friend?」
 唐突の英語に幸平が振り返ると、そこには恰幅の良い欧米系の男性が、ニコニコ顔で立っていた。
「I want to talk to him」
 そう言いながら男性は名刺を差し出した。
 

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