小説

『赫い母』つむぎ美帆(『子育て幽霊』)

 里衣子は冷たい声のまま言い捨てた。さすがに他人のものを堂々と破壊するような行為を目の前で見せられて、無言で無視するわけにはいかない。私が立ち上がると、しかし、口を開くより早く、里衣子は私をぎろっと見て、早口で言った。
「瀬田君知らない? こいつ、えこひいきされてんだよ」
 思いがけない言葉に、私の言葉は口から出る前に引っ込んでしまった。
「だってこいつ、二年の時全っ然勉強できなかったのにさ。母親が男殺した後から成績あがったんだよ? おかしくない?
 絶対、先生が『可哀想』とかゆって同情して、いい点つけてるに決まってんじゃん」
 ぞっとするほど冷たい声だった。
「こんな女のせいで、他に受かるはずの子が落とされるなんて、おかしくない?」
 その言葉に何となく目を落とした時、里衣子が持っている手提げかばんに無造作に突っ込まれているくしゃくしゃのプリントが見えた。ほんの端っこが見えているだけだが、「E」「弱点を集中的に」「ちょっと厳しい」などという文字列が見えてしまった。
「……もしそれが本当なら、羽嶋じゃなくて先生に言ったらどうなんだ?」
 私はなるべく平静に言ったつもりだったが、口を開いた瞬間に里衣子に対する嫌悪感が隠しきれず滲んでしまった気がする。里衣子は、目を見開いて私を凝視した。信じられない、という表情で。失望したような目で。
「何それ? 瀬田君、こいつの肩持つの?」
「違うけど、たとえ羽嶋がK女受けるのやめたって、肝心の自分が点取らなきゃ受からないことに変わりないだろ」
 郁美を庇っているように聞こえないようにと願いつつも、うんざりしたような声音は隠さなかった。何か感付いたのか、里衣子はさっと、手提げを背後に隠した。その表情は真っ赤だった。怒っているような、憎んでいるような顔で私を睨んだ。
「マジでやめて。なんでそんなママみたいなこと言うわけ? 訳わかんない。瀬田君がっかりした」
 その暗い目に浮かんでいるのは、郁美への蔑みだけじゃない。受験の重圧に潰されそうな苦しみから生じた、何に向かっているのかもわからない憎悪。それと気付いた時だった。
 不意に、大きな笑い声が、私たちの会話を裂いた。
 床に座り込んだ郁美が、今まで聞いたこともないような高い、よく響く声で笑っているのだ。突然のことに、里衣子たちも一瞬呆気に取られて反応できなかった
「……!? 何笑ってんの、この殺人DNA女」
 ようやく絞り出すように、侮蔑の言葉を吐いた里衣子に、しかし郁美は全く怯んだ様子も見せず、笑いすぎて目尻に浮かんだ涙を指で拭いながら、こちらを見て言った。
 

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