小説

『プラネタリウムの空』中野由貴(『シンデレラ』)

「あ、」
 思い出した。
「父と母を見送ったあの日の帰り道、私はプラネタリウムに行った」

 あのプラネタリウムはどこだったのか、もう思い出せないけれど、星なんて全然見えない東京の本当の空と比べて、ビルもなく、空気も汚れていないあの広いプラネタリウムの空に感動したことを思い出した。
 そのプラネタリウムでは、上映がはじまる前に「小さな」事件があった。
「あ、お客さま、それは中に持って入らないで下さい」
 私の前に座っていた若い夫婦、その二人の間にいた小さい子どもが赤い風船を握っていた。
「プラネタリウムのスクリーンの邪魔になりますので…」
 けれどもその子は風船を持ったまま。
「おじょうちゃん、それは受付であずかっておきますからね」
 大人の手が伸びてきたことに驚き、ほんの瞬間に手を離れた風船は大人の手にもとどかないところへ飛んでいってしまった。円い白いドームの空を風船がゆらゆらゆれて上っていく。子どもは泣いている。
 プラネタリウムの空にはおわりがある。天のゴールにたどりついた風船はそれ以上、上ることができなくてゆらゆらしている。行き場を失い不安そうな風船。受付係は困惑している。子どもの両親はただあやまるだけ。
「あの風船のせいで映像に影響が出るなあ」
 上映がはじまるときには、おことわりの放送が流れた。
「本日、風船が天井に上っておりますので、一部映像に乱れが出るものと思われます。ご了承ください」
 いざ、星ぼしが映し出されると、天井のある部分だけ星が浮き出て見えた。赤い風船は闇の中でその形だけを残して浮かんでいた。ヘリウムガスが抜けて下に降りてくるまで、しばらくの間、あの風船は、にせものの空の中で、にせもののブラックホールになるのだ。
 そんなスクリーンに映し出された「本日の東京の空」を思い出しながら、あの日の帰り道、空を見上げていた。ビルと電線で無数に幾何学的に区切られた空は暗いだけ。星がない。月すら見えない空だった。しかしこの闇の向こうには宇宙が広がっている。あの無数の星があるんだと感じることができたのはプラネタリウムのおかげだった。
 

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