小説

『ふくらはぎ長者』薪野マキノ(『わらしべ長者』)

「では何なのです」
 十分に泣いたところでまた尋ねると、彼はまた帽子を胸に当てて涙を拭い、おもむろに背筋を伸ばしてまっすぐに前を見つめた。どうやらそうしないと喋れないらしかった。
「お客様が来ないのです、ひとりも。もう午後だというのに、今日は電車に乗るお客様がひとりもおられません。あーんあーん。これでは私はもう駅員を辞めねばなりません。あーんあーん。ずっと駅員をしていたいよう、あーんあーん」
 あーんあーんのところだけまた床に蹲るので、ぼくはちょっと後ろに下がってぶつからないように用心した。何せ彼の身体は長いのだ。あーんあーんが終わってまた素早く立って大きく身体を震わせ腕をぶるんと鳴らす度に、ぼくは身を翻して避けなければならなかった。
「という訳で、悲しいのです」
 帽子を胸に当ててシャキッと立って悲しいと言われても全く悲しそうに見えないし、先程からの大袈裟な悲しがり方も全く悲しそうには見えなかった。だが相手の表現にばかり頼るのだって良くないのだ。どれほど悲しいかは分からない。
 今日ひとりも客がいないというのは確かだろう。二年ほど前から改札機に取り付けられている客数カウンターは、どれもゼロを表示していた。
 おばあちゃんの鼻が、ぼくの手のなかでもぞもぞと動いていた。そうだ、いいことを思い付いた。
 ぼくはおばあちゃんの鼻を、切符売り場の前にそっと置いた。なかから乗客がわらわらと一斉に飛び出してきて、神に賛美を捧げ始めた。
「皆さん、駅ですよ、安心してください、電車に乗れますよ」
 ぼくが声をかけると、ばあちゃんの皺の電車から放り出されて運命を呪っていた乗客たちは、一目散に券売機へ走っていった。
「お客様が、お客様がこんなにたくさん、ああなんと素晴らしい、おいみんな、来てくれ、こっちの改札は大変だ大変だ」
 改札のなかから大勢の駅員が走り出てきて、すぐに乗客たちを券売機に並ばせ始めた。
「改札はあちらにもありますよ、着いてきてください、押さないで押さないで」
 旗を持った駅員が笛を吹きながら大勢の乗客を連れていった。どの駅員も、はじめに泣いていた駅員と同じ服を着て、同じ帽子をかぶり、同じ顔をしていた。
 おばあちゃんの鼻のなかに入っていた群衆は改札機を走って通り抜け、どんどんホームへと消えていった。電車がひっきりなしにやってきては去って行く。改札の客数カウンターは合計一万人を超えていた。

 

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