小説

『シャボン玉』伊藤円(童謡『シャボン玉』)

 ――それでも、僕は未だ祖母の死に涙の一つも流していないのだ。
 休もう、と背の低い石柱の間を通って公園に入った。傍らのベンチに腰掛けて辺りを眺めた。いつもは子供が集って遊んでいるものだが、今日ブランコは芯を入れたかのように静止している。さら、さら、揺れる木々の葉擦れの音と、近所の学校から漏れるピアノの音がとりとめなく流れて、一人。冬混じりの風がいやに冷たく思えて、缶コーヒーでも飲もうか、漫然と考えてバッグを開いて驚いた。やりかけのシャボン玉セットが入っていた。ずっといれっぱなしだったのだ。取り出して、見詰めて、祖母のことを考えた。それでも想起されるのはやはり、得意気にシャボン玉を吹かす祖母だった。気がつけば僕はそれを開封して、シャボンの準備を整えていた。
筒を浸して唇に運ぶ。息を吸い込みゆっくり吐き出す。
ぶわっ、
と、いっぱいの玉が筒から零れ出す。
 空一面を、虹色の光が跳ねまわる。
 ふと苦笑いが浮かんだ。虚しい一人遊びだと恥ずかしくなった。しかしそんな気分とは裏腹にシャボン玉は風に吹かれて高く、高く、浮かんでいくのだった。電線の間を、建物の間をすりぬけて、雲と雲の隙間に吸い込まれ、消えていく。僕は、今、誰よりもシャボンが上手いのかもしれない。皮肉っぽく考えて、もう一度吹いてその時、流れるピアノの音に歌声が乗った。反射的に辺りを見回して直ぐ、校舎の方から響いているらしいことが解った。覚えのある童謡だった。懐かしい響きだった。何とも間が良いものだ、少しおかしくなって、次のシャボン玉を吹いて、きら、きら、空を賑やかに装飾して、はっ、と思い出すものがあった。
 僕はそれを、歌った時があった。
 祖母がひろげたシャボン玉の美しさに、勝手に口が動いた。ぱた、ぱた、足を織りながら、ぽつ、ぽつ、声を零しながら、シャボンの行方を追っていた。そして祖母は、それに、声を重ねた。丁度こんな、男女混声の合唱のように。子供らしい不安定な声に、老人らしい痺れたハミングと、重なって、その音符のようにシャボン玉が風の五線譜に散らばっていた。シャボン玉の一つ、二つが、まるで過ぎた一音のように弾けて消えた。まるでこんなふうに、同じピアノの伴奏を聞いているかのように。童謡らしい簡潔な間奏が終わって、そして、あっ、と気がつくものがあった。
 

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13