小説

『花咲く人生』ものとあお(『花咲かじいさん』)

 朝起きると洗面台に行き、顔を洗ってうがいをする。居間の障子を開け朝日を部屋の中へ招き入れると雲一つない空を眺めて健一は満足そうに笑った。梅雨明けの発表とは裏腹に曇りが続いていたが、これでようやく布団が干せる。散歩するにも気持ちがよさそうだ。窓から見える桜の木も嬉しそうに背伸びしているように見えた。
 桜の木・・・といっても、もうここ数年花を咲かせていない。三十五年前、中古物件のなかでも比較的安く、桜が植わった庭を見て買うことを決めた。
 何十年も綺麗な花を咲かせ楽しませてくれた桜は静かに老いていっていた。
(私と同じだな。)
 健一は今年の三月で定年を迎えた。まだ体は会社に行っていた時の習慣が抜けず、目覚ましを鳴らさなくても六時に目が覚める。残業が多く休日出勤も月に何度かある会社だっただけに、会社に行かなくなるとこんなにも暇を持て余すものだとは思わなかった。子供がいれば違ったかもしれないが、何年も不妊治療に耐えて出なかった結果を考えても仕方がない。
 退職してひと月経ったある日、妻の紗代子が提案をした。
「目的がないとダラダラ毎日が過ぎていってしまって時間がもったいないわ。まずはあなたの新しい習慣を作りましょう。」
1朝ご飯前にトイレと玄関掃除
2朝は七時、昼は十二時、夜は十九時にご飯
3昼食後の皿洗い
4夕方に二人で散歩
5お風呂掃除
 どうかしら?と笑顔で尋ねられ、習慣付けするというのはいいことかもしれないと思い頷いた。友人と呑んだときにこの話をすると、いいように使われていると笑われたが、慣れてしまえばあっという間に健一の日常の一部になった。
 トイレ掃除に向かう途中、台所にいる紗代子におはようと声をかけると、紗代子は味噌汁の味見をしようとしていたらしく、おたまを片手におはようと返した。
 

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